読み直すと新鮮な独自性に満ちている。もちろんいつもそうだが、判断が借り物でない。



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天の傀儡にでもなったような周囲の者どものぼくにたいする仕打を通して、天の意向なるものを読みとると、天はいったい魂をもった人間にたいして自分を何様(なにさま)と思っているのだ、と、ゆるしえない気持になる。はっきりとぼくはそういう〈力〉を‐どういうものであれ‐断罪する。なぜならぼくはその魂の当事者であるから。

この天を断罪することは 形而上的アンティミスムの派生的だが必然的な、その意味でやはり本質的な一使命である。 これをぼくはいくらでも繰りかえして言う。
 世の〈霊的現実〉がこうなので、ぼくは形而上的アンティミスムを本質的に純粋に展開するだけではすまなくなっている。これがぼくの〈現実〉への接点である。

 超自然的霊的現象にもっとも深入りした哲学者ガブリエル・マルセルが、生前と死後で人格変貌した者のことを報告している。この者は自分では死後のほうが創造主の意思に通暁するようになったつもりらしいが、この死後者の主張にたいして、生者の女性が、「そんなこと許せないわ!」と心底抗議したことをマルセルは併せて記している。このことをぼくは最近しきりに思い返している。


これは重要なことだからよく聞いてほしい。大事なことは、徹頭徹尾、自分の判断を天と此の世にたいして示すことであって、毫も、最も広い意味での世評を気にしたりそれに服従することではないのだ。それで無難に過ごせるかもしれないがそれだけのこと。魂や精神の意味価値は何も生まれない。それは天を堕落させることであると言ってもよい。われわれは、自分の魂から私はこう思うということを天に訴えなければならない。天の法則への服従など何の意味も、積極的意味も無いものである。はきちがえてはならない、われわれが天とはじめてほんとうに関わるのは、自分の魂からの判断を天にぶつけることによって、つまり天と闘うことによって、はじめて関わるのである。そうでなければ天そのものが愚民のままである。天とはそういうもので、愚民だけが主張していれば愚民の判断を受け入れる。その判断を愚民どもは〈天の指図〉としてこれに従い、それだけの社会をつくるだけだ。われわれが真に天に関わるというのは、創造的に関わることである。既存の天と闘うことだ、みずからの魂の判断を天に訴えることによって。そうして天の意向を改変させることなのだ。これがほんとうの天との関わりだ。服従することではない。天そのものが服従ではなく人間の主張と積極的に関わることを望んでおり、そういう人間を求めているのだ。そういう人間と関わることを望んでいる。そうしないと天国も悪人の巣窟になってしまう。それをぼくは経験しているように思うのだ。天国の概念を改変せよ。此の世の霊的不思議の性質の背後には、〈あの世〉の精神現状がある。
 そういう思いがぼくに天啓の如く忽然と湧いたので 此処に書き留めた。
 〈天を裁く〉とは、上のような天との積極的な関わりの強い表現と見做してもよい。


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別件: 感謝のこと
 〈感謝〉の基は相手への〈思い遣り〉にあり、思い遣りの基は相手の状態・状況への〈想像力〉にある、とぼくは思う。相手の置かれている状態・状況が想像できて、相手への同情・思い遣りの気持をもつことができれば、それでも相手のほうが自分にしてくれる親切・奉仕にたいして、感謝の気持が生じるのは当然だ。これを自然という。ただ標語として感謝を実践しようとするのは、自他にとって不自然で疲れるからやめなさい。その間自分の自然(自発的)な行為が全部お留守になる。







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Es muss nicht besser sein als gestern.(昨日より上手である必要はない。)

〈進化〉などかんがえると道をまちがえるよ。あるべきなのは「深化」のみ

人間は言葉に騙されて根源的なものを見失う。言葉なくして思惟はないが、言葉を突破して沈潜しない思惟もない。