(2日に書いたもの)
ぼくは、集合的容喙現象が起きるのは、人為と形而上的(高次元的)作用との複合による、と、ぼく自身の経験から、ずっと主張してきたが、現在、やはりその通りである、と確かめるに至っている。この複合現象への対処も、ぼくの主張してきた通り、複合的な、つまり二重の仕方が必要である。ぼくは、この問題について呈示してきたぼくの見解はすべて妥当なものであり、いささかも変更する必要はない、と思っている。
すなわち、この現象は、人為性において社会問題であり、責任者層を法的に取り締まってゆかなければならない。しかもこの責任者層は、高次元的作用に取り次ぎをする方法を知っており、したがって、問題の現象自体は、次元の異なる要因の複合によって起こされているのである。この見解をぼくはずっと呈示してきた。この現象に対処するには、社会的活動だけでは不十分であり、被害者自身が、同時に、生きる意識のあり方を変えねばならない。現象に同調しない、つまり、向き合わない生き方を築いてゆかなければならないのである。そのためにもぼくは、現象とは無関係な自分の人生課題を実践してきた。これでよかったのである。この世がどうあるかということと、ぼくがどうあるかということとは、別の問題として、棲み分け得るのである。
この世がどうあるかということについては、人間はやはり高次元存在による高度の生物組織操作によって創られたことを、認めることからかんがえねばなるまい(地球上の生物の自然的進化の極致であるにしては人間は所謂知力以外は余りに他生物とは異質であり貧弱であるとぼくは思う)。この存在は「神」などという立派なものではなく、反対に、人間を適当に生かしながらも、むしろ人間の苦しみをよろこぶ存在であるらしい。そして、この存在のそういう性格に、人間社会の実力者たちは乗じて、この存在の力を利用し、同時に、この存在の家僕となっているのではないか。そうかんがえると、ぼくの経験した途方もない異常現象が、すっきり説明できるのである。
偶々他で見聞してきたことが、そういう説明へと、ぼくを現在促して、やはり、と思わせている。参照として聞き置いていただきたい。
被害者にとって、人為への対処と形而上的作用への対処という、二重の課題は容易ではないかもしれないが、その場合のポイントは、自分の情念をいかにうまく統御するかだろう。哲学者アランは、われわれを悩ます事象にたいしては、情念を発動させず悟性のみを働かすことを推奨している。自分のために
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