以前、日本の大学時代、ぼくが出来るのは、勉強するからだ、と言った馬鹿がいた。ぼくが出来るとして、その出来るのは、勉強するからではない。「ぼくが」勉強するから出来るのだ。ずっと思いだす度に腹が立っていたので、ここで、言い返す言葉を記す。もうぼくを怒らすな。表面でしか判断しない馬鹿がこの世には多すぎる。

 

 

 やはり、馬鹿は馬鹿であることを自証するものだ。そういう馬鹿が多すぎた。寛容で穏和であるだけこちらがばかをみてきた。いまごろ、決して消えないその記憶への怒りが噴出している。そしてたとえ東大を出ていて学者でも馬鹿は同次元的に馬鹿なのだから面白い。これもよく経験した。ほんとうの知性とはそういうこととは別境位にある。

 この知性でパリ大学博士号を取った。誰も文句は言えまい。「ぼく」とは知性である。よい知性ほど、癖と気性が並でなく、御者に工夫と年季が要る。

 

 

 

 

 

 

すこしけむたいか? ぼくはここまで言う必要があるのだ。