これはあまりに知られていないことだが、人が状況のなかに巻き込まれている(これがわれわれの生である)場合、そこには、状況を自分から引き離している場合とは異なった必然性があり、この必然性に従わないことこそ、自分の本質を裏切ることになってしまう。状況から自分を引き離している場合には、逆こそ自分の本質に適うことであるのに。
状況に巻き込まれるか、巻き込まれないか、われわれはそのつどどちらかであり、どちらかに応じた行為ができるだけである。けっして、状況への関わり方(巻き込まれているか外にいるか)自体を選択することはできない。 そのかぎり、外からの忠告というものは じつに無責任で、真剣に生きている者をほど、怒らせるものでしかない。 賢明さを気取っている者しか、忠告などしないものだ。でなければ ほんとうに相手と運命を共にしようという覚悟を決断した者(そういう責任を引き受けた者)しか、忠告する権利はない。(自分の利害が絡んでいる場合には、それは抗議であって忠告ではない。)
われわれが見かけ上 二重性をもっているのは、当然のことであり、われわれの本性とまったく矛盾しないどころか一致する。この二重性をごまかすことが、偽善と不誠実そのものなのである。
ぼくも平穏と怒号の二重性を生きている。真剣な者はそうだ。時宜に応ずるこの二重性によって、ぼくの真実であることが証される。
二重性のない人間は偽物である。 柔和と峻厳を併せもつのは、本質に生きている人間のおのずから成るものである。 裕美ちゃんだって、このかわいらしさと厳かさがどうして同じ人格から出るのだろうと、われわれの浅はかな理解力は思う。人間の本質そのものが、悟性(分析)的理解を超えていることの証である。