この節の名言。何度繰り返してもよい : 

 

 

「美しい。ゆえに神は存在する。」 この神は造物主ではない。

 

愛とは形而上に根ざしたものであり、決意と忠実と信仰を本質とするこれが解っていない〈愛〉は けっきょく嗜好か我意か親切心にすぎない限界においてけっして持ち耐えない

 

愛は知ではない。知の適用のように誰でも愛せるとおもうのは、魂を知らない者である。人間は誰でも愛せない。愛は魂と魂の一致なのだ。自分の魂のもとめる魂しか愛せない。 魂を放棄して無差別に愛するというのは知の錯覚であり、もう誰も愛さないことのしるしである。  

 

 


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「美しい。ゆえに神は存在する。」 この神は造物主ではない。

 

愛とは形而上に根ざしたものであり、決意と忠実と信仰を本質とするこれが解っていない〈愛〉は けっきょく嗜好か我意か親切心にすぎない限界においてけっして持ち耐えない

 

 

ぼくらは、社会からよけいなものをおしつけられすぎている。それを除くには、うつくしいこころをいきること。 じぶんのたましいを復活させること 

 

じぶんのたましいを復活させるには うつくしいこころをいきること 

 

それは  おもいをこめて 愛せる存在(魂が魂を愛せる存在)を愛すること  

 

きみは音楽で それをしていたんだね  

 

 

 

知をもとめても浄くはならない。 愛さなければ  

 

愛は知ではない。知の適用のように誰でも愛せるとおもうのは、魂を知らない者である。人間は誰でも愛せない。愛は魂と魂の一致なのだ。自分の魂のもとめる魂しか愛せない。 魂を放棄して無差別に愛するというのは知の錯覚であり、もう誰も愛さないことのしるしである。    

 

 

愛にめざめたら、愛する存在を見いだしたら、愛を「論じる」ことはもう矛盾なのである。(たとえ自らの愛の行為にもとづいて述べるようになっても、読み聞く側は、知としてとる。方法上体系的に述べるほど、読み聞く側はますますそこから学術体系をつくろうとする。そして実際の愛も人間関係も破綻させる。)

 

 

 


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レジュレクシオン:résurrection 「復活、蘇生、再生」
キリストの復活、と言うときの語である。

誰でも、自己意識の根底に、本来的自己の持続を信じていなければならない。本来的自己意識は、自分で意識的につくることのできるようなものではない。その都度授けられるのである。そのような自己が持続している、持続しうる、という信念・信仰・期待・信頼。それは、自己の絶えざる、瞬間毎のよみがえり、復活を信じて生きることである。この根本的信仰は誰でも持っている。これがなければ思索もまた無いだろう。空回りの思惟しかなくなってしまう。この本来的思索、この思索意識においてぼくはいつも高田先生の世界のイマージュと一緒だ。これがぼくの自己同一性の根拠だ。真のキリスト教徒がいたら、イエスの生と自分の生を別ち難いと思うだろう。それと同じである。ぼくにとって高田先生がイエスでありキリストなのである。「ひとを魂において愛する者にとって、そのひとがキリストなのである」、とぼくは書いた。これはぼくの根底からでた言(ことば)だ。「愛する」という言葉において、ぼくは彼女をおもっていた。彼女はぼくにとってキリストなのだ。高田先生もキリストなのである。「魂において親密に信頼している」。高田先生が唯一のキリストだった。この意味において。この意味ではいまもそうである。「親密な信頼」という「友」への言葉を先生のためにとっておこう。それは「真の友情」である。ぼくは「愛情におけるキリスト」を見出しました。「友情のキリスト」はそれを嘉してくださるでしょう。真の司祭として、ぼくを祝福してください。

洗礼の聖水は、愛の涙です