四年前のきょう 

 

魂の世界が、架空世界と何故違うかは、この欄全体が証している、あるいは、魂そのものが知っている。
そこに「存在」が、メタフィジックが、感じられるなら

 



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766節に次の文を付加した:

〔瞑想とは、脱力的な覚醒状態であり、古今東西の聖賢はこれを会得している。必然的に優雅の美を知っている。優れた宗教芸術で優雅の美を示さないものはない。〕

瞑想状態、すなわち想起状態は、一種の脱力状態を要する。これは事実である。この、最も精神的に充実せる状態は、それじたいすでに内面的な美であるが、これをあらしめると同時にこの結果でもある脱力的身体状態そのものが、優雅の美、優美(グラース:grâce)、をあらわすのは、それじたい内と外との照応関係をしめすものであり、じつに意味深い。そしてなお意味深い示唆がここにはある。マルセルは、「透視」の条件を脱受肉化(デザンカルナシオン:désincarnation)-脱有体化-にもとめたのではなかったか。つまり、「脱力的な覚醒状態」こそ「透視」の際の状態であるということであり、ここで、「透視」は「瞑想」の延長上にある可能性が気づかれる。そして「グラース」は、幾重にも意味深長なことに、「(神の)恩寵」という語義をふくむのである。

《la désactualisation du voyant est une désincarnation partielle》J.m. 263
「透視者の脱力状態は、一種の部分的な身体離脱状態である」。
 -マルセル『形而上学日記』263頁-




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人間は希望をもつことが精神的に生きる条件である。希望は精神の摂理である。この摂理が神を信じさせる。ゆえに、神の存在を肯定するのは精神の摂理である。(「まず存在するもの」として措定されるものは多分悪魔だ。「精神」なくして「神」はただしく肯定されない。)


人間関係が挫折するのはEGOが原因である。しかしEGOがなければいかなる真の、充実した人間関係もありえない。EGOを否定する者は、倒錯したEGOを立てるだけであり、これはもっと悪い。「+軽薄」だからである。軽薄は高慢の罰である。 EGOを真に陶冶する道がわれわれにはあるだけである。この欄はそれをやっている。わたしがいま言ったことは、読者にとって馴染みの確認であってもらわなくてはこまる。



愛について書いてみる。よく、「チャンスは一度」とか言う。これは(それ自体は)愛に反する言葉だ〔この世では、その都度一度限りの機会の連続によって生が成っていることは知っている〕。愛とは、そのひとがそこにいてもいなくても愛することで、瞬間や場所は、愛が向ったり愛を閉じ込めたりするものではない。それを自覚している者は、〈愛のための競争〉などがいかに愛に反するものかを知っている。愛そのものが此の世では転倒させられる。ぼくはほんとうに愛しているひとには、目的行動的なものはいっさいとれない。愛とはそういうものではないと実感している。瞬間瞬間の気持がすべてだ。ほかにどうしようもない。そのひとの魂に触れているほど。魂の根底で繫がるという夢想!その夢想に懸けるしかない。それは、多分、最も充実した神への信仰状態と ちがわないものなのだ。切ったら血が出るような信仰状態だ



美が、美意識が、なぜ重要なのか。「人間感覚」そのものだからである。愛と魂の諧和に直接ふれさせるものが美であり、それへの配慮が美意識である。

〈非情な美〉というのは御免こうむりたい。



 

 

 


たぶん今年最後のさつき




自分の生む世界が最も充実していて、他の提供するものに完全に無関心でいられるひとが、もしいるとしたら、およそそのひとはこの世で最も仕合せなひとである。(われわれはこの世、正確には人為構成された社会で、あの手この手でこの自己充足感情を侵害され、自己の外へ求めるよう不断に触発されているにしても。) ・・そのひとは最も仕合せなひとである。だが誰でも本来そのようになれるはずとぼくはおもう、身体によって妨げられず、むしろ身体によって自由であることができているならば。嘗てのぼくがそうだった。
いま、ぼくは身体によって自由ではないが、あなたによって自由なのだ。あなたの生む世界によって、外の与える世界を凌駕する。あなたと、想念の世界へ潜ってゆきましょう。その一路あるのみです。海のなかへ。それが、魂の世界が、架空世界と何故違うかは、この欄全体が証している、あるいは、魂そのものが知っている。
そこに「存在」が、メタフィジックが、感じられるなら・・



〔(所謂聖書に示された)「キリスト」を信じる者がキリスト者なのではないひとを魂において愛する者にとって、そのひとが -それほどの愛を、触れて覚えるような美を経験させてくれるひとが- キリストなのである 【これはさしあたり「神人:人となった神」という観念以前の、直接的感情として、聖なるひと、という意味でよいが、わたしがここで端的直截に「キリスト」と言った意味は、じつは本格的に深いものがあると感じている。いま、それを展開する余力がない】。そういう、美しい魂を純粋に信愛する者を何とよぶか。すきによばせよう。これがぼくの「キリスト者」(キリストと共に生きる者)の定義である。「キリスト」とは、この世で最も美しい人間である、とドストエフスキーは書いている。既にここに、美経験の個人性から、「個にとってのキリスト」が意味されている。〕




〔生演奏を聴いた人の様子では、裕美さんの演奏は異様に深い感銘を与えるものらしい。感じるものは皆おなじらしい。 そういや、彼女のクラシック演奏の記録動画はなぜ公開されていないんだ。〕
〔〔これは事実であり、次の経験者の証言は真実である:
 蒼いバラ といえば、BLUE ROSE《ブルー ローズ》
 ブルーローズ といえば、ピアニストの Hさん
 《ブルーローズ》 での、ツアー最終公演
 つい昨日のことのように…あの夜が 鮮明に思い浮かんできます
 一音一音♪
 この上ない 繊細なタッチが曲に 命を与え
 みずみずしい情感が 会場全体を 包み
 聴く者すべての心に深く刻まれた
 その音色  その姿
 それは、
 私の 心の一番大事なところに しっかりと
 安置され 存在してます!
 〕〕
聴く者の心に祭壇をつくる、これ以上のことはない。

 

 

 


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真理とは品格のことだ。美意識と言い換えてもよい。真理を言葉にするには品格がなければならない。「正しいこと」なら誰でも言える。見聞して体調が悪くなる語り口は真理破壊と同じだ。「悟る」とはまずそれに気づくことだろう。

「神」は、「在るか在らぬか」ではない。自己に面しての精神態度なのであり、これが信仰だ。これが解らぬ者は、神を否定して自分の人格も落とす。
宗教・神を標榜する者にも、宗教・神を否定する者にも、悪魔は居るのである。ぼくからみれば表裏だ。「自分」にたいする態度がまっとうでない者、「神」をただしく肯定する意味を知らない者は、すべて悪魔の軍門の輩である。