キリスト教の存在の意味は、この宗教を信仰することにあるのではなく、生活圏内にキリスト教が存在することによって、「神」をかんがえざるをえない生を生きることになるところに在るのである。その意味において、西欧は恵まれている。高田博厚の云うとおりである。 これは、「人間」をかんがえると必然的に「神」をかんがえざるをえないことに、照応する。 ぼくがいま、これを言うのは、自分の志、使命、といえるものをぼくが懐いていることを表明したときの、日本人の反応の貧弱さを経験したことからである。かたちは違っても、シュヴァイツァーの「召命」と同じものをぼくは自分に感じている。世俗とその延長の宗教しかない日本では、多くの場合、そういう「召命」は理解されないだろう。「内的促し」といってもよい。それを感じるほどの、あるいは、そういうものに敬意を表するような意識を、日本人はなかなか持てない。ぼくは布教的な狂信者ではないから、ぼくの「使命」を表立って主張しないできた。そういう控えめな態度は、事の性質上、妥当であったし、同時に、ぼくへの日本人の侮辱的な反応に応じなかったかぎりでは、不当であった。そういう経験に照らして、つくづく、「神」の思索を個人内の事としていとなむ生活伝統を持つ西欧人の「人間」思索の厚みを、うらやましいと思うのである。じぶんを知的であると思っている日本人のかんがえる態度に、いかに「神」が、発想すらされていないか。そして、「神」を真剣に思念するのは、むしろ芸術創造の場においてであることを、高田博厚氏はくりかえし指摘している。ぼくの「召命」は、この意識を自分のこととして気づき、自分の血肉として見いだし、深化することである。そこに自分の生の意味を見いだした。この貧弱な日本において、孤独にその路を歩まなければならない。自己確信のみが他を拒絶することができる。