人間は一般に他者を自分より下に見たいという欲望をもっている。この欲望は、ろくに理解していないし理解する気もない相手にこそ強く向けられて、とくに、相手の思想・人格・精神にかんして壮絶な失礼を引き起こす。こういうときに、相手への敬意・愛の欠如が暴露される。それでどういうことを言っても駄目なのである。どう懺悔する気だ(懺悔する気もないなら死ぬしかない)。

 愛という言葉はいくらでも言える。愛を一般的に唱える者で、壮絶な失礼を他者に為さない者はいない。愛は、個別的具体的な意志である。そして愛があるゆえに失礼にたいして怒る。人間はそれを生ききるのみ。現代、それいじょうは偽善である。アッシジのフランチェスコを感じさせる者が現代、いるか。言葉(観念)だけの無責任な者たちばかりだ。それくらいなら正直な人間を生ききれとぼくは言っている。そういう人間だけが、現代、ほんとうに愛を生き、「神」を経験するだろう。