テーマ:
 
大先生(高田博厚先生)の彫刻と他の作者の作品とのちがいが、ふつう解っているだろうか。ぼくにはあまりに自明なので言ったことはなかったが、言う要があると思うようになってきた。現代日本で、絵画もそうだが、彫刻がとくにひどいのである。先生の作品は、制作する根本態度からして、媚態などありようがない。先生の文章、思想と同質だ。現代の、何の精神反省経路も経ずに作ったのがあきらかな、およそ大先生が苦心して感得した「彫刻の規範」意識など志向する気もない、みるだけこちらの品位が曇らされる〈作品群〉のことは、言うまい。一目してわかるのは、まず修練の厚みがまるで比較対象にならない。先生のあの、労働者のような日々の修練の厚みのなかから生みだされている(自然の造形物のように)のがわかる彫刻群は、「飾る身振り」を完全に拒否し去って、「在るということ」を、対象の個性に押し迫る努力の究極において、示そうとする。「日々労働者のように描く」(ルオー)、「ピアニストが毎日ピアノを弾くように小説を書く」(辻邦生)、「生活そのものが思索となる」(先生のアラン評)、そういう修練の生のなかから、樹木の果が熟するように結晶する作品でなければ、とても〈意図性〉を超えて「存在の感動」をあたえるようなものは創れない。「自己との対話」「自己の想起」がそこで(それに面して)成るようなどんな作品が高田先生の作品のほかにあるか。まったくないことをぼくは知っている。擬態意識に染まらすだけで、みないほうがよい。
 
 〔先生の周囲の作者の作品で、優れた、品格のあるものは、名を言うまでもなく、ぼくの性向に適うものとしても、勿論ある。品格や人間性、精神性、聖なるものへの憧れはある。しかしあえて言おう、それらにもまだ不足しているものは、実体的・内面的な「孤独」の厚みであり、これなくして真の「自己想起」「自己との対話」の照応契機とはならないのである。「外形」から自由になりきった形ではまだなく、質料的次元のこわばりをとどめている。〕




ぼくはもうひとつ、「差別する」ことを問題にして、マルセル張りに掘り下げようと思っていたのだ。「差別することは心がきたないことだ」と一律に言う、スピリチュアリスト系の人がいるからだ。差別することの意味次元を正しく捉えなければならない、とぼくは感じている。これを掘り下げなければならない。上の主張を言う人自体が、やはり件の〈真理基準〉(「差別をしない」)をもって、すでに差別をしている、とさしあたりおもわれるから。先の話とは別の人で、霊感がつよい人らしく、ぼくはこの人の説の真理可能性を前提して、この人の見地に敢えて立って反省してみて、ずいぶん心の持ち方を工夫してみたり、また、随分自分のこころを苦しめた。(きょう一日、かんがえられるだけかんがえてみよう。)
 
 結論: 形而上的に(マルセル的には存在論的に)在るべき秩序 -高田先生のいう「内部の秩序」- に基づかない差別は駄目。 この秩序自覚に基づく差別は必然。差別の質と意義が全然異なる。 心がけがれているからする差別があり、純粋の価値を自覚するからする差別、むしろ拒否、がある。 そういうことである。