谷口雅春氏が、どうしても我が子を瀕死の状態から助けたいという或る両親の相談を受け、わかりました、多分助からないでしょうけれど祈りましょう、と、消極的な応対を敢えてすることで、その両親から、どうしても助けたいという欲を取り除き、純粋な祈りをさせて、みごとその子どもは蘇生した、という話がある。 これは、助かったらいいのにな、とただ空想させたようなものだと思う。空想は、現実的な欲が無く、空想自体のなかで完結しているところに、純粋さがある、といえる。そして、このような空想のほうが、現実をつくりだす力があるのではないか。信じて疑わない、という心境は、空想のなかでこそよく果たされるのではないか。空想であるから、そこには、疑う、という要素はありようがない。空想は、物語のなかに没入して純粋に楽しんでいるのと同じである。空想と物語経験は同じだ。いわゆる現実の深刻さから解放されて空想や物語の世界に生きて、別の世界を感覚することのできるひとは純粋だ。じっさい、その感覚こそ形而上的意識だろう。天国はあなたがたのなかにある、とは、そういうことだろう。 想念の世界はそれだけでもうひとつの独立な現実の世界だとぼくは思う。想念を離れて現実は存在しない。いわゆる現実も想念でできていることを気づかないか。現実と想念の境界はだれも確かめられない。 ぼくは初めてのパリ旅行で、ホテルの窓からソルボンヌ大学を眺めて、ああいう大学に入れたらよかったな、と、いまさら実現できるわけもない夢として、純粋に想った。留学先のドイツからのパリ旅行だった。フランス語で読むことも話すこともできなかった。 何年か後、ぼくはほんとうに、このホテルから臨んだ大学に入学し、博士号を取るのだ。そこまでの経緯を、その当時無論、ぼくは想像も計画もできるはずはなかった。ぼくの内発的勉強欲求に従うことによって、何の情報収集も計画も立てることなく、不思議な縁が繫がって、ほんとうにこのパリの大学に自然に入学できたのである。フランスに入るのに最初に選んだ地はパリではなく南仏だった。その選択は、ぼくの気分という感覚によるものだった。そこからパリに行けたのは、ぼくの勉強にともなって偶然に開けた路によるものである。ぼくは自分の欲することをしていればよかったのである。状況はそれに応じて開けた。 ぼくは想念の世界にしか生きておらず、自然に想念と現実とが一致してきたのである。ぼくの行動は、日々の勉強のみ。あとはパリで生きることを純粋に夢みていた。ぼくは、自分自身に根のある仕方でパリに行くのでなければ納得しなかったのだ。だから、この夢に欲は無かった。だから実現したのだと思っている。

 ぼくにとって信じるということは、他からみれば空想のなかに生きることだろう。しかしぼくはその気になってそれを生きているのだから、ぼくにとってはそれは まぎれもない現実なのだ。 そして、信じ感じるという力を限界づけるものはなにもないことをぼくは知っている。信じ感じることは、すでにその現実を生きることである。