きょう12接続 

 

そう、〈遊び〉などと わざわざひねった言い方をするのは、ぼくはほんとうに気にくわない。思惟の無責任さがほの見えている。 

 

ヤスパースは、絶対的意識の論述において、絶対的意識を保護する働きとして「遊戯」(Spiel)を説いている。これは、生の真摯さを、思惟の無責任さから護るために、逆手に、思惟の遊戯性を自覚すべきことを言ったのである。意図が全く逆なのである。



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きょう現在6接続 

 

相手への尊敬・感謝という態度は、すでに「内的な秩序・拘束性」を意味しており、遊びどころではない。

 

 

 


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楽しむことと遊ぶことが現在の日本では同義に言われているのは、間違っていることだとぼくは思う。気づいたので書いておく。最高の愉悦や至福には、かならず内的な秩序・拘束性というものがある。遊びにはそれがあるか。ないことが前提になっているのが遊びなのである。秩序ある遊びがあるとしたら、それは、真剣な本路の活動の外郭領域である休息・息抜きだということが自覚されたものとしてである。 軽率な言葉使いはやめるべきであると思う。 

 

素直に、喜びのある生活、と言うべきである。