ぼくはぼく流に読む。個としてのぼくのすべての生き方、在り方、その蓄積が、読書の仕方にも結晶している。それは個の固有の運命の様相のひとつである。かんがえるのはぼく流にかんがえるのと同じだ。かんがえることにおいて人間は孤独で、他と比較することなく自分の運命を生きている。読書もそれに準ずるか、全く同じである。博覧強記の者はそれに見合った読み方をする。ぼくにそれと同じ読み方をせよというのか。ぼくの思索の特徴と深さのすべてが失われて、自他の役にたたなくなってしまう。
真実にかんがえる者はいつも孤独である。みなでわいわい同調している者のほうがいつも多数派で、ほんとうにかんがえる者は、それにたいする反抗者であるから、全体から分離しているように自他に思われる。じっさい、反抗による分離を、そのなかにあるかもしれない可能的な誤りを、引き受けないならば、なにもかんがえないことと同じであり、真実に達することもない。このいみでの勇気を、反省行為(かんがえること)は いつも要求している。間違いをおそれない気概によって、この気概によってこそ、神々をも感心させる者でなければ、人間を感服させることはできない。
なまじ真理を言ったつもりでいるより気概のほうが大事だ