四年前のきょう

 

愛と死はリルケ自身の課題だ。具体的な行動をしなければならない。それのみがぼくを、つよい欲求不満から救う。

 

リルケが「マルテ」を生き得たのは、それがどんなに沈鬱でも、彼自身のものであり、それゆえ喜びでありえたからだ。

 

ぼく自身のものをつくらねばならない。 それとの照応と確認、それよりほかに読書の意味はない。

 



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愛するあまり、なつかしさのあまり、死をねがうというのは、人間だけであって、形而上存在である証である。分離の生より死をねがうということ。分離を超越しようとする意志の証である。愛とは根源においてひとつであるという感情であり、それが満たされない状態を非本来的状態とみなす。愛の本来的状態への超克が、死を存在への通路とみなすにいたる。それが死をねがう意識の実相である。郷愁は、分離されざるものの分離の痛みであり、合一をめざして眠るがごとき死をねがう。「死において生を成就する」秘義。その意味。

「生きねばならぬ」はそれ自体のみでは空虚である。「生きること」は生死表裏である。死が、メタフィジックが裏にあるから生が充実する。高田先生の言葉にそれを感じないか。先生は、〈照応を感じられればおたがいに会わずともよい〉態度で交友した。そのかわり「仕事」をしたのだ、孤独のわざを。淋しくて会いにゆくという態度は何ら本質意味をもたず問われもしない。ぼくも先生もそういう態度が居座っている。