個々の存在者自身にとっては何の意味があるのか不明な、美の装いは、神がその存在者にあたえて、神自身がよろこぶためである、という意味のことを、マルテは言っている。そうでなければ、この装いの意味が解らないのだ、と。 

 

 

 

 

(新潮文庫 224-225頁)

 

 

「マルテ」のなかで、こういうことも言われている。

 

『イエスを呼ぶのは、ひとを愛する、けなげな女性だけだろう。ただ愛する女性のみがイエスを誘いよせる。 愛せられるための、いささかの技巧や才能があったとて、所詮それは灯の消えた冷たいランプにすぎぬ。愛を待つことでは、決して救われはしないのだ。』 (同 228頁)

 

 

 

それにしても、ほかのところも読みながら、リルケの正直さにぼくは感心し敬服している。そして、これほどの率直さは、よほど強靭な精神がなければ不可能だろう、と思う。リルケは傷つきやすい人間のようだが、そういう己れにこれほど忠実であるのは、ゲーテよりも強い人間であることを示しているかもしれない。どうしても感じるゲーテの傲慢不遜な一面は、むしろゲーテの弱さの、自己を守る反動的意識の現われとも解せるのではないか、と、ぼくの思いつきを記しておく。