落ち着きを失い、乱雑に生きることが習い性となった人間たちや物たちにとって、「孤独」は確かに「敵」なのだとリルケは観る。まるで集合容喙現象の記述と種明かしをしているとしか思えない秀逸な描写である。 いまの世界においてもこれが事実であることを、人間経験によってぼくは知っている。
前節の道標と みごとに重なる。
それにしても、トマス・ア・ケンピスにおける孤独者が、修道士として、修道院に護られているのにたいして、リルケ(マルテ)における孤独者は、迫害する世界の風に吹き晒されている。 可能的孤独者としてのわれわれは、このふたつのあり方を生き経験せざるをえない。それはまさに、集合的容喙の世界に在りつつ 内的生を敢行する ぼくの現実そのものだ。
(新潮文庫 197-199頁)