教養とは、自分の観点が解ると同様、他の違う観点も解るということである。これは、他を相手としなくとも、他の観点が解るだけでもよい。他を相手とすると、観点が対立しているだけ、感情的に不快なやりとりを経験しなければならず、傷となる経験を残す。自分の観点に確信を持っており、これに集中しこれを養い深化させる必要を感じているかぎり、論争しないほうがよい。相手もこちらの観点が解るほどの教養を培っているならよいが、いまブログ界で発言している者らに、そういう教養の蓄積がある者は、まず皆無である。無教養だから、観点が対立した、というのが実情だろう。ほんとうは、観点と観点が対立したのではなく、教養と無教養が対立したのである。無教養な者は、じぶんの観点いがいの観点があることを、想像ができない。だから理解ができない。この無教養の差を埋め、こちらの観点を理解させるには、その場での議論は役に立たない。無教養者を、教養をもつべく教育することが、為すべきことである。これには時間と、相手の努力・成長が要る。しかし、意識の視野が狭い(無教養な)者に、これを本気で要請できるだろうか。無教養ゆえに受け入れないだろう。それに、教養ある者になるには、素質も要るのが現実である。教養ある者は、素質においてすでに教養者なのである。いま、この世では、素質からして無教養な者が、じぶんの一観点の固執によって、世の救世主であるかのように無邪気に〈布教〉している。無邪気だけならよいが、対立する観点を断定的に否定し、他の心情を傷つける。これは無教養者の特質である。しかしこれは、学問を極めたはずの社会的権威者にも、殆どいくらでも見られるものなのである。つまり、ここでも、教養者と無教養者の対立なのであり、ぼくはそれを深刻に経験している。ぼくが教養者で、対する碩学が無教養者なのだ(これをぼくは経験したからはっきり言っておく)。高田博厚と高村光太郎の場合のような、教養者と教養者の人間対峙など、世間に普通にみられるものではない。 ブログ界で跳梁跋扈している無教養者など、その観点を了解し批判するだけでなく参考にもするような「我有化」は、ぼくのような教養者が自分の内で行っていればよいのであって、そういう者をじっさいに相手にすることは、ぼくに教養者としての自己認識と誇りがあるかぎり、無意味な時間浪費であり、よく思慮するほど、選択項になりえないものである。
(勉強すれば学者にはなれても教養者にはなれない。教養は素質から展開する人格的なものである。それを、学者はじぶんが人格的にも勝れていると妄念するから、歪な権威が跋扈するのである。)