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安定した生活を送ることがいちばん大事なことである。これは自分で工夫して築かなければならない。文化とは「人間」の生活がいとなまれることであり、「自己」が生きることである。欧州の生活にわれわれが惹かれるのはこれがあるからであり、彼ら自身、苦労して築いてきたものである。

安定とは惰性でなく堅牢であることである。それが「人間」の生のために工夫されていることである。

 
 




フランス北西部風景


 
 

雑記  

日本はいつまでたっても 「人間」がものすごく後れをとっている。

世界も異常である。その情報収集もよいが、意識生活が堅牢を保つこと。



覚記

《 真の美の伝統とは、政治力から独立した精神的自由の連続のことである。》

《「事物を感覚し把握する精神の自由」、これこそ「自然」なのであり、この意味での自然において、美の尺度(ムジュール)が、示されるのであり、この会得が、美の法則を知ることなのだと、ぼくは理解する。》

この二文は、無論、昨日の自分の節からであるが、このような文の内実に沈潜して自分の理解を深化してゆくことが、ほんらいの自分のやるべきことである。 この営為は、その本質において、身体機能にまったく依存したり、所謂思考操作に掛かったりするものであろうか。物理次元を超出し、したがってこの次元から独立した営為であることを、ぼくは願う。
 

 

具体的には言わないが、いま、この世、ぼくが経験するかぎりでは、この日本は、すでになんらかの力による人間の意識操作が、地域距離と関係なく、遍く行われている。日本という一単位として支配されていると、ぼくは経験から感知している。そこで問題は、人間の「自由」というものが、それでもなお、まだどれだけ可能か、ということである。「いかにして」、という問いが、いちばん重要かもしれない。魂の根底において無疑問的に傀儡(ロボット)となる者と、そうでなく「自分」でありつづける者は、どこがちがうのか、ということである。ぼくは、「自立的な問い」を発し懐くことができる者と、そうでない者との、差ではないかと、いま思っている。「自立的な問い」という思惟意識が、「自由」の証なのである。まさにデカルトの「コギト」(我思う)が、これなのである。「自分」に覚醒している者とそうでない者とは、ぼくにははっきり見分けがつくと、ぼくは思っている。むしろぼくにとっての疑問は、どうしてこうもたわいなく大多数の殆どの者たちが、ぼくのように覚醒しておらず、あの力に呑み込まれているのか、ということのほうなのである。これが最大の衝撃(ショック)なのである。「人間」でなくなっている。傀儡化した者たちを、ぼくは到底「人間」と見做すことはできない。このいみでは、「通りを歩いているあの者たちは、衣服をまとっているだけの自動機械ではないのか」、と疑ったデカルトは正しいのである。ぼくはこのいみで、事実的に傀儡化した者たちすべてに、彼らがぼくに無慈悲である分だけ、ぼくのほうもひじょうに無慈悲で冷酷になっている。それらは「人間ではない」からである。いったい、そもそも、「人間」となった人間など、この世にいままでどのくらいいただろうか、そういうふうにもぼくは思うに至っている。「かんがえること」に覚醒しない人間、「主体性」に目覚めない人間は、ぼくには、すべて信頼が置けない。ぼくは、「普通の人間ではない」のではない。彼らが、ぼくにおいてはじめて「人間」をみたのである。それほど「人間」は稀である、不思議だがそれが現実だったのだろう。正確を期して言うと、「人間の原理」に自覚的に立って生きていない者たちが、傀儡技術にはまったのであり、そういう者たちが殆ど全員だったのである。

 

 

デカルト的に懐疑する意識とは、理屈をこねる意識ではなく、自己意識そのものの深さ鋭さなのである。そうして「我」に至る。


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