「情操こそは真に倫理的な本質である。情操は魂の秩序であるから。ぼくが魂の体温と言うものは、魂の秩序の現前において馥郁と感ぜられる情操(魂的に高められた情感)なのである。それは必然的にひとつの高められた内的世界を現わしている。」 (この節より)

 

情操教育の大事さをぼくは訴えているが、この節は、その根本的なものをよく凝縮して述べている。魂の秩序である情操こそは、真に倫理の本質であり、同時に、真に美の本質である、といってよい。そして魂を魂にするのは具体的な愛である。

 

「内面的秩序のある個人主義」に日本は向かわなければならない。

 


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「ヘルダーリンはその詩作のなかで最も純粋に生きたのだが、一個人としての彼を考えても、彼の作品のなかでその最も純粋な姿に出会うことができる。」

ウルリヒ・ホイサーマン

 

 

 

 

「人間」と「作品」の親密な関係を端的に言い表わしている。具体的な個としての人間の真価を、作品いがいのところに分かりやすく求めようとするのは、それいがいのところでしか生きることを知らないからである。 芸術こそは人間の真価を明示する。作品こそは人間と一体なのだ。

 

単に倫理であるだけの倫理、人間社会のなかでの対応言動に、いったいどれだけの個の人間真価が現われるというのか。

 

人間を知るのは、広義での作品、最も純粋な状態に置かれた個の自己告白によってである。

 

 

 

愛によって魂は魂になる。愛の具現であるような美こそは真の美であり、いわば体温のある美である。美に体温があるかどうかは、およそ決定的なことだとぼくはおもう。 ぼくの言っているのは「魂の体温」である。ほかにいいようがない。 すぐれた芸術・音楽とされているものにも、魂の体温の感じられないものがある。それに体温を籠められたら、演奏者の創造的功績であるとおもう。

 

情操こそは真に倫理的な本質である。情操は魂の秩序であるから。ぼくが魂の体温と言うものは、魂の秩序の現前において馥郁と感ぜられる情操(魂的に高められた情感)なのである。それは必然的にひとつの高められた内的世界を現わしている。そういう世界をぼくは裕美さんの演奏によって知った。

 

 

 

 

 

日本語の美しさは標準語にある。方言にはない。ヘルダーリンのように故郷言葉のなかに純粋な美的精神世界をみることは、日本ではできない。日本における文化的地域密着なるものは精神放棄にほかならず、個と普遍の照応という人間課題の方向とは、真逆である。学校の文化祭的な意味すらない。

 

 

 

日本のすすむべき正しい路は、美感覚の秩序ある個人主義の路である。 無拘束ではなく倫理的な個人主義の路である。ぼくは倫理そのものを断じて否定せず、逆に徹底的に擁護し実現しようとする。倫理とは、全人間的な美感覚の秩序自覚であり、カント的合理性を超えている人格主義である。