礼儀を保つためには、自己を放棄しているか、自己が安定していなければならない。この両極の中途、すなわち、志を実践し、志に集中している途上段階では、他からの雑音にたいして、無礼な振り切り方をせざるをえない。ぼくも相当な無礼をはたらいてきた。深化生成途上にある自己を放棄しないためには、余裕のない対応をしなければならないから(これが無礼である)。ぼくはこの自分の無礼にたいして、いまさら言い訳も開き直りもしない。偽物でない、志をもつ人間の、これが現実であり必然である。多くはもともと向こうが無礼であったからこちらも無礼をした(それにしても一時期的にはぼくも随分無理して平静を構え、我慢をした)他からの評価を気にするには、ぼくはあまりに自尊心がありすぎる。「多く」ではない少ない場合の、ぼくの無礼には、機会があれば率直に詫びたいが、それでも、その時には無理もない状態だったかもしれない。そのあたりがぼくの器である(これは自己否定ではない)。

 

 

ぼくは不当に自己肯定する人間ではない。不当な自己肯定は、じぶんがどんなに不快な思いをさせたか自覚しないで他を断定する者のすることである。そういう者からの〈評価〉を気にするわけにはゆかない、とぼくは言ったのだ。