「日本人自体が人生にたいして小僧だ。小僧しかいないから小僧禅を見破ってくれるひとがいない。」 ぼくが指摘するしかない。
テーマ:自分に向って
親しい愛の感情と美の印象のみがのこる
リルケとヤスパース: これを論じることは本来たいへんむずかしいことであるが、問題意識はひじょうにはっきりしている。世の有象無象の軽口など手も足も出ない深淵な問題だ。集中すべき点ははっきりしているので、その難解さにもかかわらず一言でそれを言いうるようにもおもわれる。「人間存在」の窮極のありようをどのような境位でとらえることに同意するか、という問題である。両者は個的人間の「歴史性」(Geschichtlichkeit)を理解する態度において相当重なるものがある。〔これは主題にからませないが、ヤスパースにおいてキルケゴールの影は周知のことだが、リルケもまた一時期キルケゴールに耽溺し自らデンマーク語を勉強したほどであったという、〈共通項〉もある。〕 にもかかわらず、両者、リルケとヤスパースは、ヤスパースが人間存在の窮極を「実存的歴史的決断」という謂わば〈「瞬間」の技〉において観ようとするのにたいし、リルケは実存的歴史性において個が自らの存在を時間的に成熟させる窮極にこそ、人間存在の決定的意義を観る態度を一貫させている。「存在への参与」という形而上的展望において、この「形而上的存在」へ人間がどのような境位(境域)から参与することに同意するか、という、両者の「信仰」の質的差異の問題性に直面し、われわれ自身が根本態度の選択を迫られることが、「リルケとヤスパース」という主題の意味なのである。 ちなみに、マルセルに特異なリルケ論があり(Rilke, témoin du spirituel 1944)、この理解は研究者にとっても難問であることを付言しておく(わたしも再読せねばならない)。
形而上的人間存在論をおもうとき、わたしにはつねにこの「リルケとヤスパース」の問題があらわれる。ゆえにここに書き留めた。この問題自体が、「人間」を徹底的に思惟し生きた精神の先達の偉大な遺産である。
ぼくは自分の感覚に従って自己本位にしてよさそうである。というのは、自分と同じ心情で生きている他者などめったにおらず、自分を他者に移し換えて考量すると判断を誤るからである。だいたいの他者はけっして第二の自分などではなく、悪意を想定する必要はないが、どこまでも異質で疎遠なものと見做すのがよい。礼儀などもそこそこにしてくどくしないがよい。感謝していれば言葉を超えて本心は伝わるものだ。好かない気分の処に赴くより義理を欠くほうがよい。義理堅いのは自他強制となり、苦痛、偽善となり、負の結果しかない。聖書で戒めている行為(嫌々ながら為す善)と同じ結果になる。
どんな理屈を言われても直感する気分があり、これにしたがうのがよい。すこし間を置くと、なるほどと思うことがある。
もう何度も言っていることだ。信じる信じないは自由だが、悪魔とよぶしかない意志が此の世に存在する。そしてこれを認めない者は悪魔に食われ傀儡となる(これが悪魔論の要諦である)。悪魔はけっして自らが悪魔だと公言しはしない。それどころか、すべての人間を支配したいのだから、半神半獣の本性をもつものであり、そのことは露骨に顕示する。
いまさら半獣神に媚びるような生き方に興味はない。
高田先生は、「神」と「運命力」とを峻別した。厳密な反省の当然の結果だろう。そうであるかぎり、半獣神的運命力を神として崇拝し その〈判断・審判・決定〉を正当視するなど本末転倒も甚だしい。運命力は理不尽で品格を知らず、筋の通った正義などではとうていありえない。これに服従する者でみずから半獣神分身にならぬ者などありえないのが道理である。
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21日
この一週間、811節と812節はよく読まれた。自分で読み返して なるほど・・ とおもうところがある。
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21日
この一週間、811節と812節はよく読まれた。自分で読み返して なるほど・・ とおもうところがある。
他ブログをみると相変らず悪魔論不在の合理主義・原理原則主義が多いが、その傲慢とともにそのうちブラックホールに呑み込まれるだろう。こういうソフィストは太古から止むことはないのだが(こういう者達にかぎって〈太古からの知恵〉を掲げる)。ぼくはもうけっしてこういう輩に面と向って言おうとは思わないが、よく恥ずかしくなく大風呂敷を広げた演説ができるものだとおもう。ぼくは〈ブログランキング〉に参加している彼等にクリックしてあげる仕方も知らないし興味もない。順位が上がると感謝をしている。ソクラテス・プラトンにいちばんこっぴどくやられそうな小僧達だ。
順位競争をするのはまったくご自由で、どうでもよいのだが、そういう御仁等が人間の運命自体について達観したような態度でその法則とやらを〈伝授〉するのが腹が立つのである。それを〈説く〉立場(総合学・占術等)は問題ではない。ほんとうに掘り下げた得心のゆくものではない。そういう種類のものなら、今も昔も谷口雅春いじょうの論者は出ていない(いまごろどんな論者が出ても彼の傍流亜流でしかない)。彼のようにほんとうに自分が苦労して突き詰めたものではなく、けっして自分の言う全体に責任を負ってもいない。この宗教思想家の説くことが、彼自身の言うように、普遍的に実践可能なものであったらよかったのだが、彼にして最後に宗派内的なものに引っ掛った。ぼくはここからも自分のみの道に腰を据えざるを得なかった。そしてそれでよかった、正しかったとおもっている。いまさら小物に引っ掛るわけにはいかない。
日本人自体が人生にたいして小僧だ。小僧しかいないから小僧禅を見破ってくれるひとがいない。高田博厚がひとりいる。
ぼくがこれだけ日本人を批判するのはもちろん日本人がわるいからである。ぼくがそれだけ日本人から傷つけられたからである。
これはもちろん単に心理学的反応ではない。傷つけられたというのは契機にすぎず、真理が自らを啓示しているのである。それを明瞭にするのも思索であり、ぼくの批判は真理のひとつの自己結晶である。
しかしぼくは「彫刻存在」になるのだったな。こういう批判は塵を払うようでなくてはならぬ。
ぼくは心気症的に完璧主義的な面があり、折あればそれが顕在するので、この人為構築的なものへのこだわりから自分を逆方向へ解放してやる必要がある。アインシュタインが来日して花束に埋もれて寝たように、自然の美に埋もれて人為をわすれることはぼくにはよいことだ。
意識の解放がぼくには必要なのだ。