ぼくは、カントとヤスパースの研究において、それぞれの日本のアカデミズムの最高権威であると公にと見做されていた碩学たちから、大いに期待されていた人間なのである。(ぼくのヤスパース論文を自分で独語訳して見せたドイツの教授からも相当評価されていた。)だから、ぼくの、とくにヤスパースに関する見解には、信頼してもらっていいと思う。(その後、仏語を独習してフランスに渡り、そこで立派に大学博士号を、今度はフランスの哲学者、メーヌ・ド・ビランに関する論文で取得したことは、すでに述べた。ぼくより先に、同じソルボンヌで、この同じ哲学者に関する論文で博士号を取った京都大学出身の、当時既に大学教職にあった研究者よりも、良い成績で評価された。厳正な事実としてはっきり言っておく。) 

 そのぼくが、カントやヤスパース研究の碩学と、どうして縁を絶ったか、ドイツ哲学に留まらなかったかというと、ドイツそのものが、来てみると全くぼくの波動と逆であったからということだけでなく、彼らが、ぼくと人格的に全然縁が無かったからである。これはほんとうのことである。ぼくがつき合うべき人格の境位に全然達していなかった。そして、いまさらながらに、高田先生と生涯縁のつづいた、先輩 高村光太郎は、立派だった、と、現在思っているところである。これについても以前書いているので繰り返さない。ぼくはそういう人間だということの、あらためての確認を、きょう、ここに書いたのである。世間から期待されていたことを果たさなかったことを惜しんでのことでは無論ない。それより高い「人間」への導き、高田先生たちが示した精神的志向に、ぼくが本性的に忠実であったことを、誇るために書いたのである。(ぼくの人間志向の向かうところに高田さんたちがいたから出会った。逆ではない。同様に、もし「人間」がいたらぼくはカント研究者にもヤスパース研究者にもなっただろう。そういうものである。人間の心の釣り方を知らない者は、人間になっていない者である。それで学問をしたというのなら呆れる。これがぼくのほんとうに言いたいことである。)

 

 

 

 

雨後の筍のような現在の大衆ヒーラーの意識の網に掛かる人間ではぼくはない。