知性がありすぎると一時期的に知力の働きが阻害されることがある。そして知性と知力は源泉が異なることを認識するに至る。ぼくがその経験者である。ぼくの思春期というのは、ぼくの内発的な自己意識(知性)と、外部から強制される勉学との、完全な分裂によって、その内と外との壮絶な軋轢に消耗された時期である。これはまったくノイローゼではない。話しても理解しないだろうという確信、他に話す問題ではないだろうという感覚があって、ぼくは、きわめてかぎられた人々に例外的にしか、この苦しみを打ち明けなかった。母はすでに亡くなっていた。父親は話せる相手ではなかったので、後年、あの時期はノイローゼだった、と、一般語でやり過ごしたら、〈だろう、そうだと思っていた〉、と理解したつもりになっていたから、ぼくは父親を一生「誤解」させたままにしてしまったことになった。 同級生、いや、同期生(県内の優秀生徒を集めていた)にも、ぼくのような「意識の苦しみ」を懐いている者はひとりも見いださなかった。ぼくはいつも、「ぼくもあのように意識が鈍ければ、自然に半意識的に生きられて、勉強も自己との軋轢なくできるのになあ」、と思って彼らを見ていた。でも、ぼくにいちばん欠けていたのは、勉強の動機であり、どうしてこういう学科を学ばなければいけないのか解らず、学ぶことと自分との間に何の関連も見いだし得なかったことである。ぼくと何の関係があるのだ、と、ひたすら虚無感と無意味感のなかにいた。大学受験を動機とする勉強は、ぼくには自己喪失の強要でしかなく、地獄のように辛かった。だから、とにかく、この外部から強制される勉強のあり方からこそ脱け出して自由に内発的に勉強できるようになることこそ、ぼくの至上命題であり、唯一の当時の逆説的な勉強動機だった。こういうぼくに関心のある、唯一打ち込めそうな学問は、高校では未知な、哲学しかなく、自分の知らぬ故郷のように憧れていた。とにかく、教科書を読もうとすると、教科書を読む「自分」を意識して、内容に全然集中できない、そういうぼくにとって、必要だったのは、ぼく自身のなかから純粋に湧き出でる、そういう意識を振り払うほどの熱烈な関心をもって当たれる事を見いだすことだった。それには科目勉強から解放されること。浪人などしていたらぼくは死んだだろう。それでも現役で(受験)科目数の多い国立一期大学に受かったのだから、ぼくは普通の生徒と比較にならない何倍もの、文字通りの「塗炭の苦しみ」を「生きた」のである。病気とも集合容喙ともまだ何の関係もないまったくの正常な生活時代だった人生の開始期でも、ぼくにはこのような「煉獄の苦しみ」があったのである。あの時代は今より凄惨な時期だった。殆ど思い出したくない。ぼくがぼく自身でないことを強要された時期だった。 

 

今夜はこういう、ぼくの昔のことを書いた。