相変わらず、マルセルの形而上日記付録「実存と客観性」を、ナマケモノ以上(以下)のスローペースで「毎日時々読んで」いるのだけれど、さすがに終点が臨めるようにはなってきている。そこであらためて基本的な哲学的問題を確かめておきたい。われわれが「私」というとき、「私の身体」と曖昧に混同しているところがある。「私の身体」を、空間のなかで他の諸々の身体と並置させるとき、「私」は、それを眺めつつ何処かに退いてしまっていて、その場には実存していないのである。逆に、「私」が「実存している」とき、「私」は「私の身体」の「延長」において「宇宙」と繫がっている。客観的な視座から「私の身体」と云うときと、実存的な視座から「私の身体」と云うときでは、存在の次元が根本的に異なる。これは殆ど日常的な経験に属するのに、それを反省しようとすると、途端に、われわれは観念の必然的な袋小路に迷い込んでしまう。そうして、〈科学的・客観的〉な視座からは、以心伝心・テレパシーの類、それに準ずる現象は、〈非日常的・超自然的〉つまり〈非合理的〉な、〈常識〉の範囲外のこととして、殆ど否定的な無視の扱いを受けることになる。じつはこれこそ独断的な迷妄に近い態度であること、われわれのほうから形而上的次元にたいして自らを閉ざしてしまうものであること、そのことを、マルセルは、形而上日記で、反省思索を徹底させることで、指摘・告発しているのである。この形而上的次元はなるほど客観的思惟の態度で論ずることはできない。しかしわれわれは「感覚」において形而上的次元に「直接的参与」をすることはできる。そこにおける正しい自覚のあり方を見きわめるべきである。そういう問題意識がマルセルをして形而上日記を書かしめている。そういうことをぼくはここで言っておく。 

 

 

あなた、わたしのことをときどきテレパシーで感じてらっしゃるでしょう?

 

もちろん