このスピノザ的視界は、マルセルの実存の観念にぴたりと重なるとおもう。ただここでラニョ―が「個のなかにある普遍」と云っているのは、個の実在性を存在論的に保証する普遍であって、ぼくが前節でも言った普遍、高田博厚の芸術思想のなかで問題とされる普遍とは、視点がずれる。接近させようとすると、妥当いじょうの深読み込みをしなければならない。むろんぼくは全的人間として、このふたつの視界・視点への根源的関心に生きている。これがぼくの探求課題なのだ。

 すなわち、個を在らしめる「実在の普遍」と「イデアの普遍」、である。 

 



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どうしたの? 

 

うん、知への愛着を生きているのが学者のようだけど、自分の生への愛でぼくは生きている。これがいちばんだいじなものなのだ。そういういみでぼくはもともと学者ではないことを見いだしてきたのがぼくの生だったといえる。 ぼくの、学者の世界への関わりは、そこをぼくは人生の過程として通っていったけれども それに けして一致したのではない、そういう性質のものであり、むしろそこにぼくの存在意味を見いだす、そういうものだよ。 きのうの哲学会でも、結局 現代哲学は、根源的には、ぼくの在り方を志向していることがわかって、ぼくの存在意味を確かめたよ。 それでね、きのうの発表者の名文句を記し紹介しておこう。スピノザ的な言葉だとおもう: 

 

 

われわれの認識はつねに「実在の部分」による認識である、という理解の上に、こう言われた: 

「ある部分の内にその部分を包摂する全体が内在する」、と。 

 

 

これでぼくは瞬時に、この欄で じぶんで引いた、ラニョー(アランの師)の言葉を思い出した:

 

「もし絶対なるものが、意識されるまえに、あらかじめわれわれのうちに、世界のなかに措定されないならば、われわれは個として存しえないであろう。われわれの存在の源泉である、個としての場でリアルなものはすべて、普遍的なものなのだ。」

          ラニョー

 

 

そして、これでゆくと、共時性現象の不思議さへも展望が開けると思った。スピノザ的観点には、やはりそういう力がある。因果性のみで世界を測ろうとすることには限界がある。

 

 

自分を生き、自分の意識が深化すること、その深化の過程を「持続」(ベルクソン)として生きること、それしか、実在の認識のあり方は、ありえない、ということ。 そういうあり方をぼくはこの欄で意識的に生きて証しているんだ。

 

 

 

外応は大丈夫だった? 

 

潜在的にはやはりついてまわっているようだよ。ぼくのほうから触発することがすくないからほとんどないけどね。ぼく自身の秩序になりきっているときには めったにおこらない。 ただいちどだけあったよ。あとから、ああ、あれはぼくの言動が余計だったな、と、理性的に納得できた。そういうレベルのものになってきているようだよ。