これは困難な問題である。マルセル的な実存が真の実在であっても、思惟する、つまり意識をもった人間は、愛においてすら分裂する。自己反省においてもそうである(分裂する)。実存の愛は、専一的であるゆえに根源的な愛であり、ここにおいてこそ、愛は、「愛は存在である」といいうるような愛である。この一方で、人間には、意識のなかで、博愛というものを常に思惟する傾向がある。無差別の、万人への愛。しかしこの場合は、人間は、社会的な、存在論の圏外である意識空間に入ってしまっている。ヤスパースの「理性と実存の両極性」という発想においても、この、意識と歴史的根源との間の「緊張」が理解されている。この「緊張」が、具体的極限状況において、まさに「分裂」として現われる顕著な例が、多数の災害被害者の救出活動の際に、少数の救助隊によって為される「命の選別(triage)」である。ここにおいて、「意識」の観点と、「実存」の観点は、文字通り、互いに引き裂き合うものにならざるをえない。

 人間は、本来、実存の志向と、意識の志向とに、分裂している。そう端的に言っていいとおもう。個人が自己の言動を反省する場合でも、反省は常に事後的な省察であり、当の言動の瞬間に働いていた動機の現実は、完全に再現して検証できるものではない。それに似て、実存的な内面的真実は、本人のほかは、ただその真実に参与(沈潜)しうる「生を共にする運命の伴侶」たる真の隣人にのみ、了解される可能性があるだけであり、まして、外部の第三者的立場の者が、表面外見のみから判定できるようなものではありえない。

 人間において、実存と意識は、どちらかのみを選択することも、思弁的に思惟的統合をすることも、どちらも現実的でないようなものである。「信仰」もそうなのであり、むしろ、信仰そのものが、実存と意識に分裂している本性のものとして、確かめられる。そのような信仰は、確定的な教義的なものにはなりえず、実存の観点と意識の観点とに分裂したまま、その分裂を生ききるしかないような、(統合があるとしたらその「生ききる」運動のなかにしかないような) ものだろう。 ぼくの「信仰」に関する諸言表には、そのようにとらえるしかないようなものがあるだろう、と自分でおもっている。その諸言表のひとつひとつは、その各々の言表の瞬間には、それじたい真実なものなのである。信仰とは、方向をもった生そのものであり、生の真実が、体系図式ではなく、生きるという運動を要求している、そのようにぼくはおもっている。そしてこのことをぼくはここで特に強調したかった。それぞれが真実である生の諸々の局面を、それらの間の矛盾をも矛盾のままに、ごまかさずに生ききることによって、真の生きた一元化が、生のなかで深化する。そういう生観に、高田博厚をはじめとする偉大な芸術家の創造的生に触れたぼくは、同調したい。