外的人間は、外的規範に合わせようとする。
内的人間は、内的促しに従おうとする。 内的人間のみが己れの歴史をもつ。 自己の歴史性の内容は、自己にしかわからない。
人間間の軋轢は、他者にたいしては外的規範で判断し、自己については内的促しに従って肯定する、そこから生じる。
自己を愛するように他者を愛するとはどういうことか、ここから学ぶことができるだろう。
きょう現在24接続。
意外に思ったが、自分で読んでみると、内容がある。
聖書の愛の教えを、このような方向で自分のものとすることこそ、現代の人間状況にふさわしいのではないか。
愛されるほうにも、自分に責任があるということになる。愛することは、自分に責任をもって生きている者にしてはじめてできることであり、その相手への愛は、相手の自己存在への問いかけでもある、ということになる。
愛は、自分の歴史と、そのことによって自分の内なる祭壇(神への志向)をもっている者同士の間にこそ、現われる、と言うことができる。
相手の本質を感じ、その本質が生きられるように祈ることが、愛である。「変わらずにいてほしい」という思いに籠められているのは、愛する相手の本質への祈念である。
その前提として、間主体的な関係に入っているのでなければならない。 外部から判定するのは、愛でも何でもない。
この節に意をとめてくださった読者に率直に感謝する。
外的人間は、外的規範に合わせようとする。
内的人間は、内的促しに従おうとする。 内的人間のみが己れの歴史をもつ。 自己の歴史性の内容は、自己にしかわからない。
人間間の軋轢は、他者にたいしては外的規範で判断し、自己については内的促しに従って肯定する、そこから生じる。
自己を愛するように他者を愛するとはどういうことか、ここから学ぶことができるだろう。