星の王子さまが地球に来たのは、じぶんの星での薔薇とのいさかいが原因でした。地球に来て王子さまは、何千もの薔薇が咲いている庭園を見て、ショックを受けます。じぶんの愛していた薔薇は、同じ種類の花の一つにすぎない、と思ったからです。でも、キツネとの会話を通して、じぶんの星で愛し世話していた薔薇は、まさにその特別な感情と行為によって、じぶんにとって宇宙にひとつしかない、かけがえのない薔薇であることを、理解するようになります。これが「アプリヴォワゼ」、マルセルのいう「相互主体的な関係に入る」、ということであり、「客観性」の次元とは異なる「実存」(真の実在)の世界に入ることです。「客観性」の次元では、すべてが「客体」に還元され、王子さまの薔薇も、薔薇という植物の一つとしてしか理解されませんね。しかしこの、われわれが普通、「客観的」という想念のもとで見ている世界こそは、ただの意識の世界であり、ほんとうの存在ではない、観念的な世界なのです。この世界に終始する立場を、批判的に「観念論」というのです。観念論の世界では、王子さまと薔薇との間のような愛がありません。愛があってこそ現われる実在の世界がありません。ところが、最近ぼくは、ぼくの記憶では、行動変容協会と称するところが、王子さまの抱くような愛を否定する〈愛観〉を主張していることに、びっくりしました。そういう特殊な個別者への気持は、〈愛でもなんでもない。ただ当り前のことにすぎない〉、というのです。そして、〈愛は全体に向かう気持〉のみをいうのだそうです! そうしたら、王子さまは、庭園で何千もの薔薇を見たとき、〈ああ、じぶんは、一つのじぶんの星の薔薇にのみ気持を向けていたけど、そんなのは愛でも何でもなかったんだ。愛とは、これらすべてを愛することなんだ!〉、と、〈覚醒〉しなければいけないことになりますよね。およそこういう〈愛〉を、〈観念の愛〉というのだとぼくはおもいます。そういう、「客観性」だけが世界のすべてと思っているかぎり、そういうことにもなるでしょう。そして、その協会によると、この〈愛観〉を認めないのは、「自己欺瞞に陥っている」(このままの言葉を閲覧者に投げつけています)ことだというのです! われわれはいま、「自己欺瞞に陥っている」のは、まったく反対に、この協会の主張者のほうであることを、充分に理解しているはずだと思います。ぼくは、ここで敢えて、この協会を具体的に名指ししました。それほど、心底腹立たしかったのです。しかもこの協会は、申請は一応すべて受け入れているぼくの欄のフォロワーになっていたのです。だからその主張をぼくも閲覧する機会を受動的に得ることになった。このフォロワーをぼくは削除しました。こういう、存在論的な自己欺瞞も甚だしい組織が、社会活動をしているらしい。これらにぶつけてやりたい、ぼくの覚え書きをさいごに付加します:
困難な状況と状態にある人間を、食いものにしようとする、馬鹿げた世俗セラピスト共は、ほんとうに自分のなかで血祭りにあげなければならない。こういう連中は、病人がいなければ病人をつくりたいと思う医者とおなじだ。すこし気の利いたことを言っても、いかさま野郎と断定しなければならない。