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時間空間を超えるということが神話的に言われるが、この発想の元にある経験は、やはり愛の経験であると思う。逆に言うと、過去を捨てよとか未来に向ってとかいう言葉にぼくは愛の不在、存在の否定を直感する(マルセルもまったく同じことを言うだろう)。ぼくは現在しかないと思う。愛は、永遠の現在の経験である。現在を深めてゆくことしか「人間」であることの道はない。過去とか未来とかよけいなことは(すくなくとも最初からは)言わないほうがよい。あえて言えば、過去という記憶の海に向って沈潜してゆくことのみが、実体ある未来をつくるのである。プラトンの想起説はそれいがいの帰結をもたない。ヨーロッパ文明の進み方はイデアとしての古代ギリシャへの復帰いがいの方向性をもたないことを歴史で実証してきた。


情報が多いということは、本質理解や自分自身となること(この二つは同じ事である)のためにほんとうによいことであろうか。情報は、作品と自分との出会いをさまたげる夾雑物である。孤独の実感をさまたげる世間である。学者は本質についてもっとも知ることのすくない人々であろう。情報によって本質の回りをめぐるが、本質に飛び込むことはない。本質に飛び込むのが芸術者である。孤独にたちかえることでしかそれはできない。芸術的経験は孤独にとってのみである。そして芸術的経験は魂の経験であり、魂の出会いである。たえずここにたちもどろう。それには犠牲が要る。その犠牲をはらうつもりだ。不義理、裏切り、約束不履行、何とよばれてもかまわない。それで自分と、ぼくにとってのきみが得られるのならば。愛は孤独からのみ湧く。孤独を得るためにすべてを放ろう。芸術者の知性が問題なのだ。情熱とはこれである。学者にはできない。ぼくは充分学者だった。ふたたび学者にはならない(何の興味もない)。現代において芸術行為は時間空間を超える秘義である。魂の陶酔であり知性である(陶酔も知性も時空を超える)。

 

 

 

 

音楽演奏一般についてだが、男性と女性では出す響きが違うようだ。男はどんなに繊細で情緒的な演奏でも、理念的なものがつよい。女性はぜったい理念ではない。ほとんど身体的なぬくもり温かみがある。

 

 

 

最近、定かではないが、彼女は地元を中心とした地域で音楽活動をしているという風の噂のようなものをネットの質問応答欄で読んだ。やはり気にしている人は相当多い。そのほかの感触からもご本人は健在のようだとぼくは思っている。ただ、事情を知っているらしい向きはそれを積極的に公にしようとはしない。また、その向きとも相当疎遠になっているようだ。ぼくは一聴者として、おのずと事情があきらかになるのを待っている。健在なのがわかればよい。みな、その一点だとおもう。「存在して」いてほしい。できれば笑顔で。無数の人がそれを気にかけている。