ぼくが感じるということは、ぼくだけ感じるのではないということだ。

 

ぼくの感覚は純度がきわめて高いから、ぼくの感じるように感じないとしたら、そこには精神の怠惰がある、と ぼくはおもう。感覚の純度は、労せずして保たれるものではない。世のひとびとの多くは、きわめて精神的に怠惰である。この怠惰は自己欺瞞と云ってよい。

 

ぼくの感覚は、ひとつの観念的な立ち位置ではない、という確信がぼくにはある。 

 

どうしてこのことを立証できるか。このこと自体は、思弁的な立証行為を超えたものである。このようにかんがえてきて、ヤスパースの「実存開明」という企ての意味がわかるようになる。感じてもらうしかないのであり、この「感じる」ところまで思惟運動させる、というのがその意味である。 

 

 

 

 

 

このこととは別に、ぼくはどんどん じぶんの感じるところを述べる必要がある。どう解されるかは問題ではない。他に強制できるとは思わないし、そういう性格のものではない。ただ、ぼくには周到な感覚の蓄積があり、これによってぼくが判断することには、神の審判を受けるに等しい真理性がある、と ぼくは確信しているということだけは、率直に言っておく。「開明」の手続きなしでも、感じる者は感じるだろう。たとえば「詩」の内容の真実性とは、そういうものである。

 

ぼくの欄で書いていることは、すべてそういう性格のものである。

 

 

 

真理とは、押しつけたり受けとったりする性格のものではない。これが「実存開明」の大原則である。