創造主の創ったものは善であるという思想は完全に間違ったものであるというのが、集合容喙現象の直接に教えることであり、いまさら議論の余地はないものである。創造主は意地のわるいものである。ところでこのことは、人間の人間観にとって救いとなる面がある。人間の自由とみえる行為のすべては、人間の意志いじょうの仕組みによって規定されているという、もうひとつのこのことも、集合容喙現象の教えることであるが、この人間行為の規定は、創造主の意思を淵源とするから、このことの認識をよく形成するほど、集合容喙の加害行為の末端的駒としての人間にたいして、憎む気持が薄れる。形而上的認識の形成によって、形而下的現象に、意識における距離をもつことができるようになるのである。このことによって、ぼくは、人間への直接的怒りからじぶんを解放することができるようになってきている。形而上的認識の形成によって、ぼくはじぶんに留まることができることを発見している。「思惟は自由にする」のである。 そして、「神」は依然として、創造主とは次元が異なる境位で問われ直面される。 因みに、ぼくがここで言った形而上的認識態度は、スピノザの形而上思想の脱構築的摂取と見做してもよいようなものだろう。もちろん、ぼく自身の根源的経験からの、ぼく独自の思想である。