反撥を覚える他者の言動にたいしては、即、その場で、存分に言い返しておくと、負の感情が蓄積しない。それをぼくは経験しているが、これは例外で、ぼくは、圧倒的に多くの場合、直接に感情的に言動を爆発させることは、理性をもっている人間として恥であるという思いから、やり返さずにやり過ごしてきた。ぼくの場合、直接に感情的に言動を爆発させても、そのほうが、真理に適っていた、と いま思う。 これとは反対に、殆どの他者は、抑制なく感情的な言動を返すことを、ぼくは経験してきたが、こちらのほうこそ、それは間違った、資格を欠いた言動であった、と明確にぼくは判断している。 皮肉なもので、感情的になる資格のある者は、それを抑制し、この資格のない者が、感情的になる。 しかし真理の者でも、正当な言動の抑制のために負の感情を蓄積させることには変わりはない。人間なのだから。 受け流すということは、無視すること、同じ人間とは認めないことであるのなら、これをよく自覚して、あとで相手を生き返らせないことである。そんなことを記憶のなかでしたら、自分を苦しめることになるにきまっている。いちどその場で殺したら殺しつづけるしかない。  

 

 

澄んでくるほど人間は、記憶されている不正への怒りもあらたにする。そういう振幅は必然である。 下手に寛容であるのは俗物である。 帯刀しなければならない。