ひとのこころを動かすことにおいて誠実でない者は、ぼくから本物であると見做されない。そういう本物をぼくは殆どみたことがない。ひとのこころを動かすには、至誠あるのみ。「動かす」という意志をも止揚し、相手とおなじ地平に降りて自ら胸襟を開いて自己告白する者のみが、結果として相手がじぶんの望む方向に相手の自由な意志で動く可能性を創ることができる。人間はそれいじょうのことを望む権利も道理もない。これを心得て覚悟を決め、腹を括ることのみが、人間の領域のことであり、相手の人間人格を尊重することである。相手はそれを全部みている。この同格的人間尊重の土俵に降りないで(登らないで)相手を動かそうとする高慢軽薄卑俗な者しか、ぼくは哲学学者のなかにもみたことがない。だから、ぼくから縁を断たれるのである。人間というものを舐めている。他の者ならともかく、このぼくにたいしては許されるはずもないことであることを、哲学学者も気づかない。つまり、ぼくが相手にする器ではなかったということだ。生きているうちにそれに気づくほどの者なら、過去においてとっくにそれを示していただろう。成仏もできない愚か者の学問作品に、ぼくが関心をもつはずもなかった。ぼくには その明白な愚かしさが信じられぬのだ。彼らは、己れを恥じることこれあるのみ 

 よくもまあ、小手先の観念操作で事を遂げようとするものだ。人間失格というだけではたらない