いまだから、過去に、まだまだ相手の〈道理〉に乗せられて、主張すべき自分の感覚を主張できなかった自分に気づくことが多い。そのくらい、世には、じぶんは正しい感覚と道理で言動していると、思い込み、周囲もまるめこまれている、そういう偽善者が多い。ぼくも、普通に生きられていたら、そのことに、いまのように充分にはっきりと気づき、認識することはなかっただろう。習慣的につづいていた生の軌道が崩れたから、真実を視る目が開いたのだ。    

 

 

 

 

 

 

一方で、そういう開眼をもたらした、ぼくの「異変」経験に、積極的に関心をもち、訊ねてくるような人々はいない。