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言葉とは、眺めることに似ていて、創造そのものではなく、創造する場を開き、創造に気構えさせるものである、とぼくはおもう。 

 

言葉には、眺めることに固有な、表面性、無責任さが つきまとう。

これはまさに「観念性」の特徴である。 

 

言葉だけの営為をしている者は、じつにあやうい。どんなに本質的なものを思念していても、それは「生きる」ことでも、「深み」でさえもない。よくて、みずから旅人にならない憧れ人のようなものだ。 ここでいう旅人は旅行者ではなく、みずからの路をゆく「仕事」する者である。 学者のやっていることは仕事ではない。 詩はどうであろうか。リルケは「仕事する詩人」たろうとした。 「神の探求者」として、「時禱詩集」から「形像詩集」、「新詩集」へ。フランスの彫刻家ロダンの影響はおよそ決定的であった。そのリルケにして、最後に達した処が、ドイツ的規範意識を免れなかったのではないか、と、評価は分かれている。しかし彼自身がどういう処に達したにせよ、それを東洋観念で測ることは、経路を捨象した間違った解釈であるとぼくは思う。  

 

 

 

 

 

  『私は私の全存在がまだ懸っている私の人生の一部をとりあげる。その中に踏みこんだばかりで、さながら私はそのために生れたかのように思い、そうして私の運命に感謝する(マルセル・アルラン)。』

                高田博厚訳。 『薔薇窓』第一部、冒頭より。

 ( Je reprends une part de ma vie où je me suis encore tout engagé. A peine y étais-je entré, il me semble que j'étais né pour elle, et je remercie mon destin.)

 

 この言葉を仏語原文を音読しながら繰り返しかみしめる。ほの暗い神秘な吸引力がある。 ロランも高田先生にそれを感じていたようだ。高田先生の彫刻の世界がそれである。

 

  自訳:(私は、私が再び自分を全的に結びつけた私の人生の一期を取り戻そう。私はそのなかにやっと入ってきたばかりだが、それのために生まれてきていたのであるように思われて、私の運命に感謝するのである。)  〔参考まで〕