『西行花伝』で確認となったことのひとつは、この世の真実は、ぼくの言い換え語で言えば、人間が「半死半生」の境位に入ったときに最もよく映る、ということだ。これは、よく気づかれることであると思う。大事なのは、この「半死半生」の境位の、ぼくの人生における歴史的位置であり、一般化できないその意味なのだ。その意味は、誠実な存在探求を人生においてしてきた者のみに、明らかとなる。

 

 

 

これはぼく独自に思うことであるが、自分のかんがえや思いを、自分で肯定できれば、自分こそは世界でいちばん面白い人間であることが解るだろう。自分への肯定的な興味をなくさせているのは、無責任で不誠実で独断的な他者どもの、自分への否定的な判断の押しつけである。十中八九、世のなかの他者の判断というものは、その反対が正しいのである。この世の他者どもの多くが圧倒的に採用し信念としているものは、それこそデカルト的に、先ずすべて否定すべきである。それも、言葉でただ一般的に否定するのではなく、具体的な事に即した「おかしい」という自分の気持のほうをこそ、真に意味あるものとして、自分で肯定し、掘り下げて、その意味をはっきりさせるのだ。そしてその意味を公に表明する。そのとき、自分が格闘した具体的なことは、表現として一般化されるが、これは一般化の正しいあり方である。根本に自分の具体的経験があるからである。

 

これを実践しようと思う。

 

 

(だが、自分で自分を肯定できる者がこの世でいくらいるだろう。大抵は、他者たちの判断に一喜一憂しているだけで、自分を振り返っても、肯定の価値ある自分など培っていない。)