真っ直ぐしている人間というのは世にありふれていて、真の反省心が伴わないと、善人面をしているがありふれた高慢者になっている。そういう者をぼくはかなりの数知っている。そういう人間は、他者にひじょうな反撥心を起こさせ、本気で潰してやろうという気にさせる。他者への態度が、自分を何様と思っているんだ、というひじょうに強い不快感を生じさせるのだ。それを感じないのは余ほどの鈍感な凡庸者だけだ。

 真っ直ぐしていること自体はとても価値あることである。しかしそこに真の思慮が働かなければ、本物にはならない。そして、偽物と本物は天地の差で隔てられることになる。 

 

これはきわめて重要な戒である。

 

 

 

哲学とは、持てるものではない。哲学することができるだけである。哲学とは、日常において真の反省心が働くことである。真の信念とは、そういう反省心に常に吟味されていることによって定着・結晶するに至った経験そのものである。

 

 

 

「真の思慮」と言ったが、そういうものは誰も教えてくれない。自分のなかで、自分のものとして、真の思慮は開かれなければならない。どんなに本を読んだってだめである(本は、真の思慮をもつ者がみずからを確認するだけである)。そういう思慮を自分で開けない者が圧倒的に多い。「人格の深さ」というものがこれほど見られなくなった時代は多分ない。 

 (だからぼくの欄の読者も少ないのである。ぼくに責任のない、時代の精神的流行病のためである。少数の真面目な読者を得ることでも、いまの日本に貢献していることになる。)