ガブリエル・マルセルは、一般に思われているより遙かに深い思索者である。それがよく現われていることのひとつが、「意志」(volonté)についての彼の反省である。ほんらいの意志は、主体である自己の「立ち直り」であり、それは「緩和」(détente)である。これは、lui の次元における「緊張」(tension)とは対極の、toi の次元における意志のあり方にほかならない。ふつうわれわれは、意志的であることを、lui の次元での緊張状態においてしか了解していないのではないだろうか。Lui、つまり三人称次元での人間関係にしか、多くの人々は生きていない、という、現在の人間の意識状態の貧困さに、われわれはよく気づかなければならない。他者を、猜疑や計算の意識で眺めるとき、他者は「彼」(lui)になっている。Toi、つまり「汝」という関係は、主体である自己が自分自身へと立ち直り、落ち着いている緩和状態にあるほど、他者との間に育つ関係である。(マルセルはいつもこの「汝」関係の延長上に、「絶対的汝」としての「神」を思念しているようである。) ここから、「意志するとは、行動以前に自己分離しないことに成功することである」、という、先の彼の意味深長な言葉の意味も理解される。行為する自分を同時に(正確には行為以前に)傍観するような意識は、行為の意志そのものの停止にほかならない。これによってわれわれは「我-彼」の次元に移行し、本来の行為の真意においては蹉跌する。ここでの本来の意志とは、愛であることは、いわずともあきらかであろう。 愛は信ずることであり、そのかぎりでのみ toi は toi として現前するのである。

 

 

高田先生のいう「人間の一元化」もこの方向にあるはずである。

 

 

 

 

(現在の、マルセルに関する叙述は、ぼくの欄の本筋に直接するものであるという実感が強いので、「マルセル ノオト」の枠から出して、ぼくの本筋に入れている。)