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「シトー会の教会では、大事なことは、見ることではなく聞くことであるとされている。

『あなたは見たがるが、まず聞きなさい。聞くことが見ることへの一段階である。だから、耳をすまし、耳を傾けて、聴覚を従順ならしめることにより見る栄光へとたどりつけるようにしなさい。』

夜の静けさや穏やかな日の光の中にわきおこる礼拝の音楽に気取りや装飾音はあってはならない。『旋律は、何よりもまず、澄んでいて、だらしなさやあらっぽさのないようにしたい。心に触れ、悲しみを吹き飛ばし、怒りを鎮められるように、やさしく耳に心地好いものであらねばならない。』・・・」(「聖ベルナール小伝」ピエール・リシェ)

 

これが、謹厳質素の極致を生きようとする修道院長ベルナールの言葉である。何と、乾燥した禁欲リゴリズムから遠いことであろうか。むしろ魂の純粋な充溢と満足をもとめて不可避的に至った簡素質朴であり、感覚の洗練の極致を、修道生活で実現しようとするものである。 

 

魂の智慧を求めるものであることに目が覚めないか。

 

 

「すべてが、シトー修道院を、清めの場所、内面的人間が不断に向上する場所とするように働いている。」

 

 

裕美ちゃんの音楽にはその精神感覚が本性的にあるのだよね。 聴覚の聖性の感覚が。

きみの演奏態度そのものが「祈り」を覚醒させるほど澄んでいるのであり、装飾音の寡多の問題ではないのです。

 

 

 

 

「ある日、聖書の注解をしていると、ふいに先日なくなった兄弟のジェラールのことを思いだし、涙を零した。皆が驚いたので、ベルナールはこう答えた。 

 『泣くなと貴方はいう。私から臓腑をうばい、なにも感じるなというのですか。でも、私は感じている、自らおさえきれずに。私には石のような堅さもないし、わたしの心は青銅ではないのですから。私は確かに感じるし、苦しみます。わたしの苦悩は絶えず目の前にあるのです。私は苦しいと告白するし、苦しみを否定できません。・・・ 兄弟ジェラールはわたしにとって大切な人でした。・・・ もっとも親密な友であったのです。その彼が私のもとを去ったのですから、私は辛く、死ぬほど傷ついたのです。』」

 

天使でも受肉して現生すれば、弱さをもつ。 裕美ちゃんもぼくもね。

「豊かな英知から、聖ベルナールは最初の越えるべき一段を自己認識と考えた。・・・ 人は、自分が神の似姿ではあるが、・・・修道士は自分の弱さを恥じてはならない。ベルナール自身、自分はひとりの人間でしかないことを告白している。」

 

すべての人が、ピアノに向かうときのきみは「真剣そのもの」であると証言している。そう、きみは真剣であればいいんだ。ほかのことをかんがえなくていい。対象をもつ仕事者のきみには真剣さの空回りはありえないことをぼくは知っているから。

 

 

 

 

 

 

永遠というものがあるとしたらそれは「記憶の王国」であり、そこではすべての愛と美の記憶が生命をもって生きており、生の本質と現実そのものであり、そのすべての記憶はその意味と内実をますます深く無限に開示しつづけるような世界である。

記憶そのものが永遠の生ける象徴、具現者となるのだ。