モーツァルトの深刻さは、同時に力である。 その深さは、この世に苦しんだ者のみ知る。
人間の幸福には、断念の幸福と希望の幸福とがある。結論のようなこの言葉をまず言っておいて、幸福とは幸福観であり、人生観そのものであると思う。
人間は幸福を求めているのではない。愛を求めている。幸福は結果である。
思想においてすら、つまらない人間に関わらないこと。(つまらない人間とは、分不相応に判断することをやめない人間。学問する人間に最も多い。)
ぼくには、芸術をやりながら俗な人間というのがどうしてもわからない。矛盾である。これもつまらない人間、排除すべき人間となる。
芸術とは、つまらない人間の作用を排除して「自分となる」力である。
ぼくはほんとうにそういう自分となろう。そのためには美を経験することである。美を経験し自分をみいだす者には、さらに美が経験される。
美を経験することと、自分の本源をみいだしていることとは、同じである。 このことをぼくは自分の血を支払って言っている。
幸福とは、自分をみいだすことである。芸術はそのためのものであり、だから芸術は自己との対話なのである。これはただの思索や意識構えではできない。美により自分をみいだした状態で思索するのである。
いま、ぼくの経験していることを書いている。モーツァルトの力で純粋な自分をとり戻し、高田さんのトルソ作品に、まったくの意識構え無く自然な感覚で感心する自分に、しずかにおどろいている。
美とは、魂が感銘し、自己を思い起こす経験である。
美の力とは、人間の自立の力である。