ここで言う「自覚」と、さきの(デュ・ボスの)節の「自覚」とは、意味次元がちがうことは、よくわかると思う。 真実な自覚は、歴史的個としての自覚でしかない。これは概念比較的なものではまったくなく、あらゆる思弁の終滅である。



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ぼくが、おとなになろうとする意識がこわれたのはよいことだった。それは間違ったことであったから。他の国では、日本のような、「大人になれ」などという余計な意識関与はしない。ありのままでよく、やるべきことをやっていればよいのだ。他国のおとなは、みな、大きな子供である。知性と理性の訓練を受けた子供(人間としての態度育成もそこに組み込まれている範囲。じつに自然で、意識構えの強制など何もない)。これが人間主義の基本なのだ。

 子供と大人がこんなに分裂して互いに感情問題を生じさせているのは日本ぐらいだ。日本社会にはそういう余計な意識構えが多すぎる。神の意識が社会にないことの結果であり原因である。

 

 


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小学校時代の母子読書ノートを、これだけは、欧州滞在中も日本のどこに居るときもずっと自分から離さず持っていた。ぼくが十六の歳に他界した唯一の母の真の形見である。これは具体的比較の話ではなく表現で言うが、ぼくくらい本質が変わらず同一で持続している人間もめずらしい。じっさい、「あなたは(ちっとも)変わらない」と、特殊なことででもあるかのようによく言われている(それが当たりまえだろうと思っているから ぼくのほうが言われて記憶に残るのである)。いま、ノートを開いて内容をすこし読みかえして、思うことがあるので、きょうはほかのことをぜんぶ休んで、それだけを書こうとおもう。(欄を書きはじめて二年たった日)


ぼくは学校からなにをまなんだだろうか。親子読書活動のようなよいことをもするが、それをのぞいては、中、高、大学、本質を得たことはない。自分の本質を覚え、離れたのでしかない。世間にすぎないのだ。人間は、落ち着いた状態のとき、そのひとの本当がでる。落ち着いた状態のとき、他のひともそこにいて落ち着けるなら、それはほんとうにいいひとだとおもう。ぼくはたぶん、そういう、宇宙でいちばんいいひとのひとりだとおもう。なぜなら、まちがった信念がないから、そして、まちがった信念がないということは、そのひとが落ち着いているときにほんとうにたしかめられるから、ぼくは自分に安心しているのである。これは誰にでも言えることではないとおもう。それはぼくが多くの経験から感じたことである。理由づけようがない。ほんとうのところで安心でき信頼できるひと、それは意識が本質の自覚に達している〔これがほんとうの知性である〕ひとのみである。ぼくはそこにおいてゆるぎがない。それを感じ認めず信頼しないなら親だろうが絶縁するしかない。さいわい母とぼくは本質を同じくしていた。こういうことは他でほとんどないことを後で知った。ぼくから不快な思いをしたことがあるひとがいるなら、それはぼくの本質ではない、ぼくが落ち着いている状態ではないときの経験なのです。こういうことを自覚的に言えるひとは多くないとおもう。落ち着いていても間違った信念とともにあるひとが多いから。ぼくが、自分を純粋であると言えるのは、間違った信念とともにぼくはないからです。このことはひじょうにはっきりとかんじる。いまの状態でぼくはそういうことを言いたいとおもった。


ときどきはすべての観念にさきだって自分の本質をかんじることがたいせつだ





きみの演奏をきくたびに、如実に痛切に、きみの頭の良さ、つまり、意識が本質に密着して自覚され実現されていることを、ぼくと同一の本質を感じて、ぼく自身を思い出させてくれるきみと一緒にいることを感じて……魂が共振して涙が出ます いまも





 子供の童話は、世界がどうあろうとも自分の魂の理念を護ることを感じさせるべきである