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二年前に書いたこの価値ある節が初再呈示 

 


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羞恥には心理学的と実存的との二つがある(と Jaspers は言う)。
前者は比較相対的なもので、多数他者の鏡に映った、他者の日常的な眼に映った自分の言動を、他者の観点から意識する際の、否定的感情である。
もしそういうものを僕が、価値受容的に意識したら、ぼくの書ける内容、ぼくの書き方、殆どできなくなるだろう。
そういう心理学的、つまり一般的観点からの、だからぼく自身の根源的観点からのものではない、そういう、心理学的と言われる観点からの配慮を全部自分の内で軽蔑し拒否して、はじめからそういう一般的なものを、ぼくの根源にこそ従って突破し、純粋にぼくの魂の声を刻もうという意識で、はじめから書いている。ただぼくの魂の真実から乖離した内容と書き方だけはすまい、と、それだけに自分の羞恥感覚をとぎすませながら。
 だから、ぼくの書く内容と書き方は、最初から、確信犯的に、意識して、「魂的」(根源的)であるだけ、「可能的反社会性」をもつことを、覚悟するとともに意図している。その「突破」的態度そのもののなかに、魂の内的秩序が統制的に働き、振幅がありながらも全体と芯において調和的で、根源的な規範的枠を越えないことのみを自分に期待しながら。
 そのようなものとしてぼくの書くものは読むべきであって、世間一般の観点から判じてはならない。つねに魂の真実への根源的誠実さの現れの内容と、その現れの仕方のみに、意を用いながら読むべきである。
 
 

 

 

自分の内容を得ていない(知識教育が無内容にさせる)若者は、自分の内容を知識によって得ようとし(これが虚栄心である)、これが一生続くのが学者である。 自己の真の内容を得る路は、リルケに訊くのがいちばんよい。そのリルケは、若者は愛に相応しい内容的成熟をまだ遂げていない、と説いている。若者は、愛が何を意味するかをまだ知らない。 上〔略〕で、虚栄心を捨てて単純になることを、ぼくは言っているが、じつはそれ(単純になること)が、自己の真の内容を得るまでは、至難なことなのである。知識ではない自己の内容、ヤスパースはそれを実存的内実(Gehalt)と呼んでいる。これは個人が注意深く内省的に己れの人生を歩んで内面的に蓄積してゆく具体的秩序である。リルケに照応的に覚醒させられた森有正は、学者的態度を一掃して自己の「内実」を得ようとして生きる。これが彼の「経験」の思想となる。