ぼくは、ぼく自身の巧まない本性的で自然な動機によってこの欄に載せている諸節が、おのずと一貫した内容で互いに響き合っているのに気づいて、満足している。それは、「真剣さ」という内容である。ロマン・ロランの言葉で「貞潔な魂」と言われたものであり、ぼく自身の言葉で「魂の潔癖」と言った。 そういう真剣さは、いまのスピリチュアリスト系にはないことに、よく気づいてほしい。真の真剣さから逸らせようとしているのが、いまの彼らである。だから空虚なのだ。 しかし、やはり最大の不快をもって経験した、精神的に片輪な真剣さというものも、ぼくは認めることはできない。そういうものをぼくは認めない。 だから、ぼくは、「真剣さ」は、「成熟した真剣さ」でなければならない、と更に言いたい。これも、教養感覚に基づくものであり、むしろ、教養感覚そのものなのだ。