ぼくの中学時代に国語の先生が、「聴講料をとってよいほどの重要な話」と言って、こういう話を授業中にしてくださった : 

 

 中学時代までというのは、出来る子というのは、特に努力しなくても、本来の頭の良さで、優等生でいられる。そして、とりわけ頭が良いのではないゆえに懸命に努力して、やっと優等生のレベルにいる子もいる。学習量が急に増える高校に入ってから伸びるのは、後者の子であり、中学まではのんびりしていても出来ていた頭の良い子は、高校の学習量に太刀打ちできなくなり、追い越されてゆく。だから、頭の良い子ほど、学校での成績に関わりなく、普段から、与えられる以上の学習を、自ら、積極的・自発的に行う習慣を身につけるべく努力しなければならない、と。 

 

 

つまり、学力というのは、努力するエネルギーに比例するということだろう。努力に勝る天才なし、という言葉もある。もちろんぼくは、世に謂う学力は、ほんとうの実力とも教養とも知性とも関係ないのが現実だと思っている。よく、有名大学出で、精神視野が哀れなほど狭くて貧弱なのに、脇目も振らずに努力してきただけ、本人はそのことに無自覚で威張っているのが、ごろごろいるが、成り上がり者、精神的田舎者の悲しさであり、井の中の蛙大海を知らず とは、自分たちのための言葉だということを、彼らを称賛するほどの世の大方の凡庸大衆とともに、彼らは一生知らないだろう。 

 

それはともかく、所謂学力のためでなく、教養と知性と真の実力のために、学校以外の知的刺激の機会や場所が、ほんとうに頭の良い子のために設けられていることが、教育立国のために不可欠である。日本はその点まだまだ立ち遅れている。 

 

 

 

 

(「日本人は、大学に入って以降の伸び代(しろ)が外国人と比べて小さい」、と証言されるのも、上の事情のような構造的原因があるだろう。)