ぼくは、ずいぶん、ぼくの生活の多くの周囲者たちの信念力に騙されてきた。騙されてきたというのは、納得して受け入れてきたということではない。彼らの、自分の信念を確信しきったその精神態度の実存的・人格的現前を前にして、理屈を超えて彼らがそれで生きてきた真実がそこにあるかの如く、尊重せざるを得なかったということである。そしてそのかぎりでぼくもそれに或る程度調子を合わせざるを得なかったということである。ほんとうに納得はせず、しかしぼくもかなり感情的に演技をして、世のなかの根本情態とでもいうべきものに合わせるふりをした。自分自身を騙すふりをして、世のなかの人間たちを適当にあしらってきたのだ。これはぼくの人生の最初からそうであって、世間一般の人々にたいしては、いまでもずっとそうである。 そういうふうに騙されてきた、と言えば、それは全然騙されてきた内には入らないじゃないかと思われるだろうが、ぼく自身の人生経路を通して、じぶんの感覚や感情・信念のほうが、ぼくのなかで勝ちを収めるにいたるまでは、意思的に相当譲歩してきたといういみでは、ぼくの意思のなかでは、かなり騙されてきたといえるのだ。その証拠に、いまでははっきり反論となるような思念をぼくは持っているのに、以前はそういう思念すら思い浮かばずに、相手に感情的な反撥はいだいていても、納得のゆくような反論もできず、相手に相当言いたい放題のことを言わせ、悔しく忍従した経験が沢山蓄積している。なにしろ、ぼくには、ぼくいがいのほとんどの者が、人生においては先輩に見えていた。いまだから、その張子の虎はよく喝破できるが、それまでは、世人に騙されていたのと変わらない。繰り返すが、問題の「騙し」は、理屈の次元ではなく、実存的・人格的信念の次元のものだから、理屈でそれにやりかえすほどの浅薄には生来無縁なぼくは、自分自身の実存的・人格的信念力がほんとうにぼくの根源に根ざし定着するまでは、暗中模索しながら忍の一字で生きなければならなかった。しかも(しかし)、その間、ぼくは着々と、したたかに、じぶんの我をつらぬいて、つまりこの点では、のらりくらりと世の人々に調子を合わせるふりをして、利用するだけ利用し、頃合いを見計らって出し抜く、ということを、世慣れた政治家顔負けにやってきたのだ。この点、ぼくの信念力は最初から厳然としており、世の人間に調子を合わせがちなぼくを、事実においては、しっかり導いてきた、といえる。これをもってぼくは、じぶんの「絶対的意識」が、ぼくを一貫して導いてきた、と表現できると思う。