「感受性の強さ」ということが、なにを意味するのか、そもそも不明だが、ぼくは、抽象観念だと思う。感受性が、ひとつの積極的な力として注意されるようになったのは、抽象性への反発からだろうが、感受力(感受性の強さ)なる、それ自体抽象的な観念を受け入れて、自分を誇るようになる人間は、すぐに、その誇るものについて、自信喪失と自己懐疑に陥るものだ。「観念の網」(高田博厚)に注意深くないから、そういうことになる。だから、ここで、「感受力と自己反省力の関係」なる問いをたてること自体が、無自覚に抽象的・観念的な行為なのだろうが、それを察しながらであるからこそ、この問いをたてることは意味がある。つまり、そもそも、自己反省力なくして、感受力は本物であろうか?という思いから、ぼくはこの問いをいだいているからである。自己反省力がないのに、感受力を自負する人間に、ろくなものはいないことを、ぼくは再三経験しているので、この問いをたてるにいたっているからである。 

 

さあ、きみたちもかんがえてみてくれたまえ。 (この問いの)意義は、多分、この問いを懐きつづける行為自体のうちに、あきらかになる。