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ぼくの思想は意図せずして一貫している。 

 

 


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彫刻は、もっとも一元性に迫る簡素な素材空間であるということは、彫刻の感動が真実であるためには、創るにしても鑑賞するにしてもこちら(人間)の側の生の充実を最高度に要求前提するということだ。いまのぼくの状態がこの要求前提に応えうるだろうか。

いまのぼくは(過去の)記憶が(現在の)実感を補っているのだ。まったく現在的な感動は殆ど裕美さんの演奏ただひとつなのだ。


思想とは魂の秩序である。「*「構成」:内的必然性の自由の証言(親密の秩序) 」でこれは既に言ったことだが、ゲーテのローランにたいする称賛の言葉 「美しい思想をもち、美しく感じとった人だ」を思うと、ここで(ゲーテの)言う「思想」は、「魂の秩序」と言い得るものであろうとあらためておもう。


(ゆえに)みずから美を創らず批判ばかりする者はけっして真に「思想」などもってはいない。「自己」をもっていない。だから破壊と要求――この二つは同じであるという深い真理が感得できるであろうか――であるような批判しかしない。


は、「イデー」すなわち観である。「想念」(イデー)をはなれて「魂」は存在しない。イデーは魂の秩序であり本性的に「美」の定義である。美を現わさないうちは真の思想は形成されてはいない。「触知しうるイデー」は魂の接触(親密)の実現である。

「形而上的アンティミスム」は 本性的に「魂美の実現」をめざす営為である。その営為において事実的に「思想」となる。「行動であるような思想」に。
 この思想(理念)は実践することによってしか自覚されない根源的イデーである。なぜならそれは魂そのものなのだから。この実践行為そのものが「真の思惟」すなわち「知性」である。「美感に即する思惟」が真の知性、わたしが問題とする知性なのである。それは「魂の実証」行為そのものである。