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学問哲学より大事な実存的現実があるというヤスパースの態度は、キリスト教徒なら、一切の仕事の営みの上に神聖な神への祈りの生活を置く態度と、類推的である。




自分の生活と人生において自分の経験に即して哲学することこそ、真剣な課題である。思想としての哲学に従事することではない。生活全体が哲学になるべきである。実存はそれである。




哲学を思想や認識の構築だと思うと間違いである。思想を構成してそれに従って生きることでもない。思想や認識の否定ではなく相対化が結果として生じるように、哲学することの中心を個々の具体的生における自己生成に据えなければならない。そこにこそ、「思想の思想」、「メタ思想」が、「理念の理念」 「メタ理念」が見出されるのであり、これをぼくはずっと自分の「形而上的アンティミスムの理念」としてきた。ぼくの根本思想が、ヤスパースのそれに最初から根源的に貫かれているのである。彼に従ったのではない。根源的であることを相互に確認できるのである。




ヤスパースの核心部分を訳して確かめて、落ち着いて高田先生と向き合えるだろう。実存に思いを馳せるのもずっと現実的になる。ただヤスパースが教えてくれたのは、それさえも実存の現実そのものではなく、現実はぼくの現実のみであるということだ。「本を読む」ということは「ファンタズィー」の領域である。そして「言葉」は間接的媒体なのだ。そういうことを言っても、魂の直接の証である言葉がある。ぼくがいま高田博厚を読み、語ることは、あるいみで哀しいことなのだ。不可能な夢を感じようとする… ただそこに、魂の現実として感覚するのだという熱情があり、これは一つの信仰なのだ。魂を感じるという信仰、これは造形や音楽では直接的現実経験としてある。言葉は、内容を自分で想像しなければならない。裕美ちゃんの音楽の直接経験にはかなわない。ぼくは高田先生の「人間理念」とともにある。それでどう生きるかが問題だろうが、ぼくはすでにファンタズィーそのものに内実があると信じたい。それを信じるのはぼくの情熱である。そのかぎりそれは経験ではなく思惟なのだ。いまのぼくには、裕美ちゃんによって愛を経験することからでないものはすべて空無な想像なのだ。彼女の愛だけが現実だ。ファンタズィーがつねに愛の現実への帰還を促すものであるのなら、ファンタズィーの内実は、愛あってこそ、想像でなくなるのだ。高田先生を読むのに、かたときも裕美ちゃんの愛がなくてはぼくは、その「距離」に、痛切すぎて耐えられない。現実の愛がぼくに生きるときのみ、読書は内実をもつ。以前は、空想の夢でいいと諦念していた。それで「ぼくらしさ」が、ぼく「ひとり」でも、再生されるなら。いまは「ふたり」なのだ。「愛が信仰させる」。「ぼく」は、いま「空想」ではなく、「現実」なのだ。

31日 朝