簡潔にこう定義できる〔狂信者の定義〕:
じぶんを肯定していられるための思想を他に押しつける者。 つまり、信仰の意味も思想の意味もわかっていない者。 じぶんを肯定できていない者(じぶんを否定する場合も、けっきょく不正な肯定である)。
過去をふり返って、そういうふうに書かざるをえない経験があるのだ。いまの ぶろぐ界など 問題ではない。
それにしても人間というものは、おなじような良識然とした顔をしていても、次元の差が甚だしい。そして、低い次元の者にかぎって、われこそは次元が高いと思い、他の面前で、それを平然と口にする。
人間のシステムそのものがちがうのだ。 三次元人とか五次元の者とかいうことではない。 そういう次元差をつらぬいて、人間のシステムそのものが、個々においてちがう。 それに気づかない者は、いつまで経っても、人間の経路によるちがいというものに気づかない。ところがこれこそ本質的なことなのだ。
だから、ぼくが「次元」というとき、数的次元のことではない。所謂精神世界者が無視している、教養的次元のことをいっている。 言動や発想の次元のちがいを、仮にシステムのちがい、といっている。 教養とは学識でも知力でもない。
それをぼくはずっと言っているのだが。
最近の表現では、観念論と、形而上的実存思想のちがい、と おおまかにいってもよい。