どうしたの? 

 

うん、いま、自分で書いた「原口統三の知性」を読んでいてね、すこしも変更するところがないどころか、いまのぼくもますます彼と照応する「思想の見極め」を深化させているな、と思うと同時に、ぼくはちょっと生き過ぎたかもしれない、と思っているんだ。おかげできみと出逢えた。このことは唯一ぼくのいまの生をぼくに肯定させるものだよ。同時にね、集合容喙なんていう、こういう余計な現象を知らないで死んだ彼を、うまく生きたな、とも思うんだ。この世にこんなつまらないからくりがあったとはね、まったく、知っても、なんの純粋な自己知にも役立たない。ぼくのような、ある面で彼と同質な人間は、この世のつまらないからくりの、余計な経験をする前に、この世の生を終ってよかったんだ。そのいみでは、彼はうまく生きたよ。でも、それだけに、ぼくにはきみはかけがえのないひとなんだ。 

 

きょうは、その、ぼくときみとの出逢いの契機となってくれた方の命日だ。 

 

 

 

 ぼくのこの欄は、雨の日の美術館の常設展示室だよ。声高に客寄せなどしない。 沈黙の部屋なんだからね。「自分」をかんがえてみたくなったひとが、(それは多分に雨の日だろう、リルケの言うように) 傘をさしてでも自分で出向いてくれる場所だ。自分自身の足取りで、孤独者が、そこしか行き場がないようにね。そうでない人々はいちばん訪れることのない処だ。そうでない(孤独を知らない)人々が訪ねてくれてもむしろ迷惑だ。沈黙の場は、孤独者のみのものだ。「孤独(沈黙)」こそ、「人間」の条件だ。「美」を知っているひとは、みなそれを知っている。

 

きみの演奏の美しさも、「もの」と長年格闘した、沈黙(孤独)の経験の膨大な厚みの上にのみ、魂の美として輝いている。それがどんなにすばらしいことか、本読み学者には、一生、その入り口にもゆけない。原口が書いているようにね。これは「純潔」の原理の真実だよ。