怒りも深い思想を生む
怒りの炎が聖火の如く燃え続けていることこそが、ぼくの理性の証である。同時に、怒りの表白のみしつづけていることはできないから、この欄に書いているようなことを書いているのである
テーマ:自分に向って
動物が休息に多くの時間を使うのは、エネルギーを溜めて見事な狩りをするためである。
真の思索をするには充分な休息が必要だと言ったのはアランである。
デカルトもそのようにして比類なき省察をものした。
いまぼくを規制し芯をつくっているのは、「自分がデカルトとなる」と言明した以来の態度、すなわちすべての臆見を排して自分の原理から真の認識体系をつくろうとする構えである。この構えは、抱いているだけで自己統制力がある。自分に明証的と思えることいがいを拒否する力で同時にこれはある。
この「真の認識体系」は、結局、自分に明証的と思える根源的感覚を原理とした、自分の経験の総体的組織化でしか、ありえない。これが、森有正がデカルトの思想の歩みをみずからの「経験」思想の範とした意味である。(「経験」と「体験」のちがいもここではっきりわかる。「経験」は必然的に、ひとつの形而上思想を形成するに至るものである。)
このことをいまぼくは明瞭に直観した。自分の根本感覚に確信と自信を持ち得る段階に達さなければ、「思想」というものはけっしてありえない。これがデカルトがみずからの思想形成に時間をかけた意味である。
論理的に正しいことのみで命題の連鎖を組み立ててゆくことなら、子供にでもできる。デカルトのコギト自覚は、カントが解釈したような命題分析に解体できるものではけっしてありえない。
ところで、否定するということは殺すことである。デカルトは、帯する刀で殺す哲学者である。自分を侮辱する者を自分のうちで否定することは実際に殺すこととすこしもちがわない。勇気をもってこの真実を言う者がどれだけいるか。憎むより殺したほうがよい。
デカルトは、本当に剣を抜いたことがある。ほんとうに殺したろう。そういうデカルトをぼくは信頼する。
付言: 合理主義にたいする偏見がある。というより、合理主義(合理論)という言葉自体が誤解のもとかもしれない。すくなくともデカルトは、自己にとっての内的神秘を否定してなどいないどころか、「省察」を素直に読めばわかるように、「神」の観念にはむしろ純化された神秘主義がみられるのである。デカルトの神秘主義は、彼の個人史においても遍く指摘されているところであり、彼の優れた弟子であるエリザベト王女もまた、デカルト的神秘主義と言いうる信仰に生きたのである。
デカルトの哲学は、「自己の内なる外的なもの」と見做しうる情念と、その情念に呼応する外界からの影響とにたいしてこそ、その果断で賢明な態度をみせるものであったのである。
4-30 17:33:56
5月1日
気散じに画像欄をみるのも控えよう。どうも俗物の無恥な画像が多すぎる。心への、そして心と直接する身体への暴力だということがわからないのだろうか。醜は心身への暴力であることがわからぬなら人間であることの意味はない。醜があふれている(内的志向秩序の破壊が現れていることが「醜さ」の定義である)。この国の大方は内的秩序の感覚もない輩だ。ぼくは「禅画」も醜だと思っている。あの〈伝統〉は壊すべきだ。「神」不在の伝統のつけはおおきい。 この国は〈芸術者〉〈文化者〉すら、一皮裏は俗物者だ。発想根本が形而下でしかない。
欄題「journal métaphysique intime」を、直訳した「私的形而上学日記」に直した。ぼくはもとのほうをこのむが、意味をはっきりさせておこうという配慮からである。フランス語の、明晰であるゆえにふくらみのある語感世界のニュアンスがひいてしまっているので、彼我の文化差をあらためて覚知する思いだ。しばらくこれでやってみるが、もとにもどしたい気持ちはすでにある。「高田博厚先生と共に」を強調して引き締めてみる
日本人の精神的致命点をぼくは一言で言える: 「コギト」の自覚が居座っていない。どんなにデカルトを評価する哲学学者もそうだ。ぼくはこの世界の内部を知っているから言っている。日本的俗物性から、哲学学者すら脱していない。日本のアランやヴァレリーが出るはずがない。この(同じ)ことを、「〈坊ちゃんでなければ純粋でありえない〉と云うのが日本の特質だ。西欧の理想主義者(イデアリスト)というものはむしろ悲劇的である」、という言葉で高田博厚は言っている。
ぼくは、コギトの自覚から一瞬たりとも離れたことはない。これがぼくの、「公然たる秘密」である。
高田先生同様、かつてぼくは〈思想の鑑賞者〉であったことはない。
ヴァレリーがパスカルに言った言い方に倣ってぼくは言う: 悪魔よ、ぼくにはお前の意図が見え透いている、と。悪魔は天才智慧者であり、どんな計算機械も敵わない。デカルトが(コギト自覚への過程で)想定した「欺く神」である。
これがデカルトの「書き方」である。彼の「人間」がよく顕れている:
(デカルトからシャニュへ宛てた、「愛についての手紙」と呼ばれる書簡文-1647.2.1-の冒頭)
「 ただいまいただいたお心づくしのお手紙には、その御返事を書き終わるまで、心おちつかぬ気持がいたします。ご提出になった問題は、私などより学問のある人々でも、短時間に吟味するにはたいへんに骨が折れるであろうと思われる問題でありますが、私は自分がたとえ長い時間をかけても、それらの問題を完全に解決しえないであろうことをよく心得ておりますので、いま私の心を動かしている熱意が私に書きとらせるところを、すぐに紙に書くほうがよいと存じます。ゆっくり考えたうえで書いても、よりよいものは書けそうにないからであります。
・・・ 」
果断さと緻密さがデカルトの思想行為の特色であるが、大方の日本人は、この「果断さ」と「緻密さ」の観念すら、自分の経験から相応しく理解することはできないであろう。ともあれ、これが近代合理主義の祖と呼ばれる人間の書きぶりであり、情念や感動を否定するのでなく賢明に善用することを心得ていた「人間」の実像なのである。手紙の内容以前に、この書く態度にぼくは打たれたので、これを記しておこうとする熱が生じたのである。
ぼくの正当な自己尊厳意識は、通常ぼくのコギト意識と結合していることによって、「存立」と「統御」を同時に保っているが、コギト意識による統御を離れれば、この世でもっとも恐ろしい暴君怪物となって、ぼくにたいして頭を上げて或いはぼくの上から物を言おうとするすべての者たちを徹底的に八つ裂きにするであろうようなすさまじい情念である。特にいまのような余裕のない状態の持続を生きることを強いられている状況にあっては、そうである。
自分の舵取りがなかなか難しい。
かけがえのない身体と神経機能を壊されたうらみは恐ろしい
ぼくがこれにたいして平静でいられるのはむしろぼくが常軌を逸した心境にあることによってだ。そのために(常軌を逸することによって平静でいられるために)ぼくはこの欄を書いているのかもしれぬ
怒りの炎が聖火の如く燃え続けていることこそが、ぼくの理性の証である。同時に、怒りの表白のみしつづけていることはできないから、この欄に書いているようなことを書いているのである